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キム・ヨンボム著「日本主義者の夢」プルンヨクサ社出版、日本語訳連載J)



―朝鮮人による司馬遼太郎の歴史観批判―






第2部 再び明治の栄光を

 

― 司馬遼太郎史観、その日本主義の正体 ―

 

そのJ(96p〜101p)

 

 

 

 

 

 

周辺文化を重視する司馬

 

 

司馬は、今まで多くの人々によって、アジア文明の‘中心’として理解されてきた中国の前に、モンゴルを中心とした周辺文化を堂々と対置したわけだ。‘モンゴル人の文化がどうして野蛮なのか、’司馬は、この様に抗辯したかった様だ。

 

司馬が、中心文化より周辺文化を、より重視した点に対してはカン・ゼオン教授もすでに指摘したところである。司馬の多くの作品を好んで読んだ日本の精神医学者・影山任佐(かげやま・じんすけ)も同じ見解を表示した。影山は、文明批判書ともいえる‘街道を行く’シリーズ中の一つであるアイルランド旅行記≪愛蘭土紀行≫の例をあげ、この様に語った。

 

“司馬は、ローマ文明が最後に到達したところに暮らしていたケルト人に、限りない愛情を抱き(単行本で)2巻づつも、その紀行で割愛した。また司馬の作品では、信長・秀吉・家康(同じ日本歴史の主人公達)よりは、・・・、中心から離れた所の人物達が光を発している。それも完全に離れて,出る事のない周辺的存在が、中央の渦巻きに巻き込まれていく過程が、作品の妙味であるとともに白眉だ。”

 

確実に、司馬の作品はそうだ。≪龍馬≫の主人公、坂本龍馬も日本近代史の実際の主役でなく、どこまでも周辺人物だ。司馬の言葉を借りれば、“本当に無名の人間”だ。司馬は、その“無名の人間”を“有名な人間”に浮き立たせ、歴史を動かした主人公として再創造し遂げた。≪坂の上の雲≫に出てくる主人公たちもやはり、歴史の周辺人物に過ぎない。

“関西と言う日本文化の中心で生まれ、そこで育った司馬が、どんな理由でマジノル(marginal/周辺的な)な人物に執着したのか?ここにこの作家の核心を究明する事が出来る端緒が隠されているようだ。”

 

影山は、司馬の周辺執着を解明する事が、必ず司馬史観の秘密を突き止める端緒だと見た。

 

 

 

辮髪のアイデンティティー

 

 

こんな端緒に接近する為に、予め司馬の辮髪論から探って見よう。

満州族とモンゴル人が、昔から頭を削った(辮髪)と言う点に視線を向ける司馬は、形態は少し異なるが、日本人も辮髪をしたと主張する。日本人の辮髪は、映画の中のサムライが頭の中の部分を剃刀で押し広げた姿を思い浮かべばよい。司馬は、中国の周辺民族達は、この様に頭を削る事で“‘中国の周辺民族’と言うアイデンティティーを、頭の形で立証した。”と語った。

 

この様に、同文同種の親族系列である満州族とモンゴル人、そして日本人が辮髪をしたのに反して、他の種族である中国人は辮髪をしなかった。

然し、唯一韓国人は、同じモンゴル系統でありながらも中国人と共に辮髪をしなかった。これに対して司馬は、辮髪をしない韓国人と中国人が自ら‘文明の中心’の中にいると自負しながら、周辺族たちを野蛮へ追いやったと信じた。彼の眼に、韓国人は、中国と一緒に“文明の中にいたし、文明の中にいた為、人間”として扱われたが、日本人は、他の周辺族達と並んで辮髪のアイデンティティーを表示した為に、‘野蛮’として扱われたと見えた。

 

司馬は、中国人が辮髪しないことに対してはさほど反感がなかったようだ。彼が目障りに感じたのは韓国人だった。人種的にとか言語構造で、モンゴル系統である韓国人は、どうして辮髪をしなかったのか、司馬は、韓国人が中国に追随する‘小中華’を自負した為に辮髪を

せず、日本人を含んだ周辺族を差別したと信じた。さらに、この様に韓国人が自らを‘小中華’と見て、‘文明’の中にいると自負する為に、日本人を‘倭野郎(日本人野郎)’と、蔑視し、人間以下の扱いをしたと主張した。

 

 

 

中国―韓国対、モンゴル―日本対比論

 

 

辮髪のアイデンティティーで指摘したところと同じく、司馬の韓国―日本対比論は、常に中国―モンゴル対比の延長線で展開された。

言い換えれば、‘小中華’を自任した韓国が、中国と一緒に東アジア文明(中国文明)の陣営にあって、他の陣営にはモンゴル・日本が席を取っている構図が、司馬の文化分類法だ。司馬が韓国を言及するとき、通例中国と同じ線上に置いて語る理由が、即ちそんな対比的構図に根ざしている為だ。中国と韓国を一つの束として処理してしまった司馬の文化分類法で、韓国はモンゴル族―満州族―日本人として連結される周辺文化に属さない。そうであると、司馬が韓国を中国文明の‘中心’に属すると認めてくれたのかと言えば、そうでもない。

 

司馬の話を直接聞いて見よう。

 

“‘文明’の証拠は、文明の源泉である明の皇帝を宗主に推戴することだ。朝鮮が、明に対し自らを分家の関係に置き、中国を‘天朝’と呼んだのは、さほど卑屈なことではない。儒教で言う禮教の秩序では、その様に言うのは当然だった。二つの国は“どこまでも宗支(宗家・分家”の関係だったのか、ヨーロッパでのように領土的な属国ではなかった。とにかく、儒教を共有することで朝鮮は華であり、時には中華と一緒に並んで、こっそり‘小中華’を自負する事もした。少なくとも(仮にも)日本に対しては、華を自任し君臨した。しかし、“日本は違った。室町(1336〜1573)時代の日本も、江戸時代の日本も、中国と異なる独自的文化を身につけ、中国と宗支(宗派と支派)の関係もなかった。(室町幕府の官貿易は別途だが)。この様に日本は、体制・文化諸共に、儒教社会を意識しなかった為に朝鮮側から見れば、野蛮を意味する‘倭’だったし、悪く言う時は‘倭野郎’だった。同様に、朝鮮は自分達が華となる為には、周辺は野蛮国とならなければならなかったので、北側の女真も南側の倭も、すべて東狄(東側の蛮族)となるものとして、朝鮮の‘小中華’を成立させた。少し奇妙な感じがするようだが、朝鮮が明国と文明を共有していると言う意識は、完全に主観的であり観念的であったようだ。”

 

あ観念的”だと言う司馬の批判は、実に辛辣極まりない。その辛辣な韓国批判は、韓国を、中国の中心文化からも日本の周辺文化からも、すべて同じように排除してしまっている事を、読む事が出来る。その様になれば、司馬の東アジアの文明観から韓国と言う存在は孤立してしまう。

結局、韓国を、中国と対等な位置において見るのではなく、中国に対する文化的属国の立場に置いて見るのだ。

司馬は韓国を、決して、独自的な文化を持った国として見なかった。ただ単に、中国から伝わって受けた、朱子学と言う儒教主義的イデオロギーに中毒された‘観念的な小中華の国’としてのみ、考えただけだった。それに比べ日本は、中国の儒教文化から自由で独自的な文化の国だったと言うのが、司馬の持論だ。要するに、韓国は従属的であり、主観的な‘小中華’の国だったのに比べて、日本は独自的周辺文化の中心国だったと言うのだ。

 

 

 

無思想の日本は騎馬民族の中心文化?

 

 

司馬は、イデオロギーという定型化された思想をとても嫌い、機会ある毎に強調したものだ。彼はイデオロギーが、人間を‘土木機械’のような奴隷にしてしまうと指摘した。だから司馬は、マルクス主義に目をそむけ、それと同様に中国と韓国の儒教思想、特に朱子学のドグマを徹底して批判した。同様に、空理空論を業とする朱子学こそ、中国と韓国を停滞の泥沼に落とした、観念的な‘虚学’だと規定した。

 

それに比べ、イデオロギー面で自由な日本、無思想の日本は、むしろ中国と異なる独自的な文化を保持する事が出来たと認識した。日本が中心文化から独自性を維持していたと言う司馬の歴史認識、朝鮮から伝達された朱子学の影響を受けたけれども、朱子学の枠から抜け出て結果的にはアジアで一番はじめに、独自的に明治日本の文明開化を実現する事が出来たと見た司馬の歴史観は、調べてみると、カン・ジェオン教授が指摘した周辺史観と見るのは難しい。司馬が表面的には日本の‘周辺性’を繰り返し言った為に、ざっと聞けば周辺史観と見ることが出来る。しかし、実際に司馬自身は、日本文化を周辺文化と考えたくなかったし、むしろ中国−朝鮮文化に対比される騎馬民族の中心文化と強調したかったようだ。

 

司馬は、日本文を論じる機会がある毎に、日本が中国と朝鮮の儒教文化と仏教文化を受け入れた点を率直に認めた。そうであるが、日本が受容し遂げた文化は、全く独自的で独立的であることを幾度も強調した。例を挙げれば、中国と朝鮮では官吏を登用するために過去の制度を採択するが、日本はそうはしなかったし、中国と朝鮮に存在した宦官制度も、日本にはなかったと言う点を、取り立てて指摘したものだ。

朱子学が日本に導入される事はしたのだが、その影響は極めて微々たるものだったと言うのが司馬の見解だ。 




−(次回に続く)−



 

(訳 柴野貞夫 2010・4・22 )





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