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キム・ヨンボム著「日本主義者の夢」プルンヨクサ社出版、日本語訳連載⑮)



―朝鮮人による司馬遼太郎の歴史観批判―





[第3部]  ‘記憶との戦争’を展開する人々

 

―司馬史観の忠実な継承者、「自由主義史観研究会」-

 

 

 

 

○「李王朝500年は世界に例のない貨幣0の国であり」「朝鮮は、歴史の発展から取り残された落伍した社会」と、一貫して主張して来た司馬遼太郎の朝鮮史観は、「朝鮮停滞論」を軸に、「朝鮮民族による自主的な近代化は望めない」と朝鮮半島の植民地化と侵略を推し進めて来た日本帝国主義の主張を、正当化して余りある。

○特に、この章でキム・ヨンボムが指摘した、近世朝鮮の貨幣経済の実態は、司馬遼太郎の朝鮮の歴史に対する、あきれるばかりの無知と、根拠なき歴史叙述の実態を暴露している.(訳者注釈)  

 

 

 

 

江戸時代の、韓・日善隣交流

 

(129p~139p)

 

 

 

二人の(訳文連載⑭参照。藤岡信勝と井沢元彦を指す。)応答を聞きながら、筆者が、最初に先ず感じた点は、司馬の韓国観と彼らの韓国観が、同じ版から刷り出した版画の様に瓜二つと言うものだった。司馬が、≪明治と言う国家≫という著作で、冗漫に言及した朝鮮王朝のソンビ(在野の学者)の‘日本蔑視’が、そのまま繰り返されているのを見ると、彼らの韓国批判の方式は、司馬から習ったものではないかと思われる。彼らは、とやかく言うまでもなく、忠実な司馬史観の信奉者だ。朝鮮人が、日本人を蔑視したと言う証拠として、シン・ユウハン(申維翰)の≪海游録≫を例に挙げたのを始めとして、アジア停滞論=朝鮮停滞論に立脚し、日本だけが一人、真先に立って経済発展を成し遂げた事を強調する点、中国と韓国の関係を徹底して主従関係として見ていると言う点、日本が遠い昔から中国に対して独立的であったと言う点が、司馬の見解と一致する。

こんな諸点は、前にすでに言及したので再び反復しない。ただ、日本人達の間で、もしくは韓国人達の間で、誤解の素地があるいくつかの点に対してだけ、建設的な批判を加えよう。

 

まず、‘お金を物乞いする日本の乞食’に対する部分だ。結論から言えば、井沢の話は間違っていた。無論、≪海游録≫には、確かに乞食に関する一節が出てくる。粛宗45年(1719)、ホン・チジュン(洪致中)を正使(使節団長)とする、第9次朝鮮通信使が関東地方に踏み込んだ頃、シン・ユウハン(申維翰)は、相模と武蔵の間の村の通りの風景を描写する中で、“田畑では、秋の収穫真っ盛りなのに、腹を空かした百姓と乞食達が村の通りのあちこちで見られた。その中に盲目者が半分を越えるのが、まことに奇妙だ。”と、記録して置いた。

筆者が知る、同じ申維翰が乞食に関して言及した部分はこの一節だけだ。申維翰は、‘お金を物乞いする日本の乞食’に言及した事がないだけでなく、日本の商品・貨幣経済が、朝鮮よりあまり発展しなかったと書く事もなかった。その様に、まるで申維翰が、朝鮮よりもっと発展した日本社会の商品経済を、全く理解せず、間違って記述したものの様に話したのだ。

 

 

 

17世紀末葉の、朝鮮の商品・貨幣経済

朝鮮では、1678年に、すでに常宝通宝(サンピョントンボ・상평통보)と言う貨幣が鋳造され始めた。そのために、申維翰が日本を訪問した頃である18世紀初葉には、貨幣が全国的に流通され、貨幣経済が農村の農民生活までも支配するようになった。カン・ジンチョル教授に依れば、“18世紀に入るその前後の時期に至っては、農村の貧困な農民達までも、少額貨幣を支払って野菜や塩の様な生活必需品を買わなければならない程度に、(朝鮮社会は)貨幣・商品経済の荒い波濤に巻き込まれた。”その上、カン・ジンチョルの論文<停滞性理論批判>で引用された、≪粛宗実録≫(粛宗)44年閏(うるう)8月の、一つの上疏文(王に申し上げる文書-訳注)の内容を見ると、“蔬菜を掘る老婆や塩商人も、穀物よりは貨幣をもっと好み、それなしには物を求める事は出来なかった。”と言い、甚だしくは、貨幣を得るために、仕方なく安値で穀物を売って、高い価格で木綿を仕入れる農民もいたと言う。

 

粛宗44年といえば、シン・ユウハンが日本を訪問する直ぐ前の年だ。

従って、その頃朝鮮では、すでに商品・貨幣経済が相当発達したことを知ることが出来る。のみならずそれを背景として、巨大な産業資本を蓄積した‘都賈(도가)’と言う独占的な産業資本家も出現し、広範囲な流通組織網を整え活動したと言う学者達の研究結果も出ている。

これで推し量って見る時、“日本側が、貨幣経済面で、朝鮮より抜きんでている”と言う主張は、至極日本中心的である事と同時に、隣の朝鮮の経済発展に対しては、目をつぶったまま言い捨てる、実に無責任な発言に違いない。

 

無論、≪海游録≫の内容が、全体的に日本を見下(みくだ)して見る印象を、濃く漂わすのは否定出来ない事実だ。朱子学の学識の程度と詩文作成能力を基準に、日本知識層の水準を低く評価し、朝鮮文化を羨ましがる日本人の姿を多く描写した為、日本側から見れば朝鮮人の日本蔑視に関した指摘として映ることもある。しかし、その書物の一冊の内容だけをもって、朝鮮人の日本観を‘蔑視思想’と要約してしまうのは、歴史の複雑な現実を単純に処理してしまおうと言う、意図的な処置だと言う以外に見ることは出来ない。

 

 

この時、朝鮮人の日本蔑視は、壬辰倭乱(1592)以後に強化されたものであることを、日本主義者たちは知らなければならない。7年に及んだ侵略戦争が、朝鮮人に負わせた精神的・物質的被害と痛手を少しでも理解するなら、シン・ユウハン(申維翰)のような朝鮮ソンビの日本卑下が、何処から由来したものであるか、斟酌する事が出来るのだ。

 

 

 

明治以前の善隣関係

 

二人の対談者達は、更に韓・日関係が、江戸時代(1603~18689)には無論のこと、それ以前にも、決して良い間ではなかったと断定した。例え朝鮮通信使が往来したりしたとしても、明治以前には対等な関係、互恵の関係ではなかったと言うのだ。

これに対しては、在日史学者、カン・ジェオン、イ・ジンフェ教授が明快に批判した事がある。二人の教授によれば、韓・日関係は、頻繁な交流があった古代時代は差し置くとしても、豊臣秀吉の朝鮮侵略で悪化された期間を除外すれば、中世日本の武家政権である室町(1336~1573)幕府の全体の期間と、江戸時代のほとんど大部分を通して、善隣友好関係を維持した。

 

朝鮮と日本の善隣関係が成立されたのは、1404年、太祖、イ・ソンゲ(李成桂―1335~1408)が朝鮮を建国してから12年後の事だった。その年7月、室町幕府の3代将軍である足利義満が‘日本国王’の名前で使節を送った以後、室町幕府が崩壊するまで約160年間‘日本国王の使臣’が60余回も派遣された。これに対して朝鮮は、最初には答礼として‘回禮使’と言う名の使節を送って、1428年からは‘通信使’を派遣した。

イ・ジンフェ教授は、≪新版 日本文化と朝鮮≫で、“通信と言う信、即ち信じる事と友誼を通ずる様にする”と言う意味で、これはつまり、“朝鮮国王と足利将軍(日本国王)が、항례(伉禮)の関係、即ち、対等な関係にある事を意味する。”と解釈した。

 

朝鮮と日本の間には、使節団だけ、行きかったのではなかった。貿易関係も活発だった。朝鮮は日本の商人達に、釜山浦など三つの入り江を解放し自由に往来する事となった。無論これは、朝鮮朝のはじめ、頻繁に海岸を襲撃、略奪する日本人海賊達に対する懐柔策の一環でもあったが、とにかく、三浦(プサンポ、チェポ、ヨンポ、4代世宗時に決められた日本との三つの通商港)に這入って来た日本人は、年間5千名を越えたし、接待費だけでも莫大な金額に上るものとして知られている。一旦、三浦に入ってくるだけで帰国する時まで、船員達に米、豆、醤油、炭、酒と鮮魚類を支給するが、1439年(世宗21年)には、日本人達に支給した米が総計10万石に達し、

年毎に対馬島主に送る세사미(歳賜米)の準備を心配したほどだったと言う。

 

このように、長い間維持されてきた善隣友好関係が決定的に破壊され、朝鮮人の間で日本人に対する不信感が大きくなったのは、7年に及ぶ豊臣秀吉の朝鮮侵略の為だった。しかし、天下の大勢が決着した1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、朝鮮との国交回復に積極的だった為に、両国関係は、新たに朝鮮通信使の往来を通した善隣関係に向かった。

 

朝鮮の最初の使節団が、江戸幕府に派遣されたのは、1607年1月だった。しかし460名で構成された大規模の第一回使節団は、通信使と呼ばなかった。通信使と言う名前が付けられたのは、1634年第4回使節団の時からだった。続いて、朝鮮朝廷は1811年まで江戸幕府の指導者である‘将軍’が世襲で承継される時毎に、慶祝する意味で12回も通信使を送った。19世紀に入ってきて、通信使派遣がぷっつりと一度で終わった理由は、江戸幕府の莫大な経費負担と、国内政治の混乱に起因したに過ぎず、両国間の関係が悪化した為ではない。

 

いずれにせよ、通信使派遣で象徴される朝鮮・日本間の善隣友好関係は経済・貿易交流は無論のこと、文化・医学・芸術など各種文化分野の交流を活発に増大させたし、特に日本文化に多大の影響を及ぼしたものとして、今日の多くの日本の学者たちも指摘している。

 

 

 

草梁倭館(チョリャンワグアン)の役割

 

イ・ジンフェ教授は、当時朝鮮が江戸幕府との関係を、どれだけ重視したかを説明する為に、日本の駐朝鮮外交代表部兼貿易代表部と言う事が出来るプサン(釜山)のチョリャン(草梁、現・プサン広域市チョリャン洞―訳注)倭館を、例に挙げた。

 

“倭館に関係する朝鮮の実務者達は、訓導(朝鮮時代ソウルと地方で教育を担当する正・従九品の教官―訳注)以下、3千名に達したし、時には5千名を越えた。さらに、倭館内の建物修理(最初は25年毎にしたが、後では40年毎に変更)、防波堤と巡らした石垣などの保守を行い、各種名目で来訪する使節の3カ月分の滞在費まで全部負担した。ここには、船員たちも含まれる。その経費は、莫大な”金額に達したが、これは、朝鮮が日本との善隣関係の維持をどれだけ重視したのかを、見せてくれるものだと言うことが出来る。”

 

朝鮮側の配慮がこうであるのに、日本人の中では、日本の使節団が首都ハニャン(漢陽、朝鮮王朝の首府・ソウルの古称―訳注)を訪問した事が無いことを挙げ、対等な関係が無かったと主張したりする。これに対して、イ・ジンフェ教授は、日本に対する朝鮮の外交姿勢は‘警戒しながら交わる’と言う立場であった為に、日本使節のハニャン(漢陽)訪問を許諾しないのだと説明した。

 

日本の天下を統一した江戸幕府は、朝鮮との国交回復を慶祝する為1609年、300余名規模の使節団を派遣するが、この使節団はプサンポ(釜山浦)に到着し、ハニャンから来た朝鮮官吏達の迎接を受け、帰国した。朝鮮朝廷が日本の使節団をプサンポで迎接した理由は、室町幕府時代の日本の使節が歩いたその道に沿って、豊臣の軍隊がいっぺんに、ハニャンに上がってきた例があった為だ。                                                                                                                                                                                   

即ち、室町時代の日本使節団は、朝鮮情勢を恬淡(てんたん)したものだった。その上、豊臣一族がいまだに残っていて、イムジン倭乱時捕まえられて行った朝鮮人たちも送還されない状態だったので、朝鮮朝廷は、徳川幕府に対する不信感を消してしまう事が出来なかったのだ。それが慣例として定着され、その後、日本使節のハニャン(漢陽)訪問は許諾されなかった。

しかし、その事が両国間の善隣友好関係を阻害する要因とはならなかった様だ。要するに、紆余曲折はあったが、1868年明治維新の時まで、朝鮮・日本間の善隣交流関係は継続維持された。

 

 

 

明治日本の優越意識

 

朝鮮と日本の関係が、決定的に悪化したのは、周知の通り、明治維新によって日本が‘天皇’中心の王政に復帰し出してからだ。その以前にも好くない関係だったが、明治時代に入って悪化されることは決してない。

幕府時代の実質的な統治者である‘将軍’と朝鮮国王が、260余年の間、対等な位置で交隣関係を維持して来た点に照らしてみれば、前の引用文に出てきた所の様に、‘王’の字と‘勅’の字が入った日本側の外交文書は、朝鮮側の疑懼心(ぎくしん)を買うのに十分だった。日本側が中国王政の国書にも使用される二つの文字を、いかなる予告もなく、公式外交文書に使用したのは、何はさておき外交慣例に外れる行為だった。その為朝鮮側では、その様に不遜な外交行為をしながら、王政復古を誇示する使節を派遣すると言うのは、不遜な意図を隠したのではないかと言う、不吉な疑問を抱く事となったのだ。

 

これに対して、カン・ジェオン教授は≪朝鮮の攘夷と開化≫で、“初期明治政府の首脳部には、日本国内の権力交代、天皇と将軍の地位の差を、対朝鮮外交に一方的に利用しようとする傾向があった。またそれと同時に、徳川幕府時代に朝鮮通信使が江戸を訪ねて来た事を、朝鮮国王が徳川将軍に‘藩属の禮’を取ったものとして理解する傾向もあった。

”と指摘した。

‘藩属の禮’と言うのは、江戸幕府時代‘藩’と呼んだ地方領地の指導者達である大名達が、一定期間江戸幕府に来て勤務する事で、日本の実質的統治者である将軍に対する忠誠を誓い、自分たちが幕府に隷属されている事を確認した行為を言う。言って見れば、‘藩属の禮’を云々したのは、朝鮮国王を、将軍より一段階低い序列として格下げさせようとする悪意的な意図が覗われる見解だった。

 

これを見れば、明治支配層の間では、将軍が天皇の臣下であるのと同じとして、その将軍と対等な外交関係を開いてきた朝鮮国王は、同様に天皇に臣下として臣隷(예속)しなければならないとする、日本優越意識が一層強かったものと見える。そうであれば、幕府政府と対等な外交関係を維持してきた朝鮮政府が、そんな不純な意図が込められた明治政府の外交文書を、受理するはずが決してないではないか。

のみならず、修正を要求したことにも、固く‘王’の字と‘勅’の字を最後まで固執するので、朝鮮側としては、明治政府の隠れた政略と策謀を疑う他はなかったのだ。

中国王政を敬う‘小中華’の国と非難する日本人達が、天皇の下に朝鮮国王が‘臣隷’する事を願うのは、朝鮮蔑視を超えて征服思想の表出と言う他に見る事は出来ない。その点で、幕府末期、天皇を敬って西洋の蛮人を追おうと言う‘尊王攘夷’思想が明治日本に始まり、‘尊皇征韓’、即ち王政復古とともに、韓国を征伐しようと言う思想に変質されたと言うカン・ジェオン教授の指摘は、相当な妥当性を持っている。

 

その様な、明治日本の‘征韓論’的策謀が込められた外交文書の接受を拒否し修正を要求した朝鮮の行為を、単純に中国を‘親分’と奉る‘子分’朝鮮の‘小中華’思想から由来する排日姿勢にほかならぬと罵倒するのは、真実の歴史解析ではない。あい

それは、明治時代の栄光を今日の日本国に塗布しようとする事にだけ汲々とする狭量な民族主義者たちが、明治日本による韓半島の植民地化と帝国主義的特性を意図的に糊塗する、自己中心的日本主義の表出に違いない。

 

日本に初めて武家政権が成立して以来、天皇と将軍の関係が曖昧模糊な状態で持続されながら、特異な‘2元的国家元首制’が存在する事となったし、その後王政復古によって、天皇一人に権力が一元化されることで、朝鮮と日本の間に修好を取り巻く外交文書の事件が発生する事となったのを、理解出来ない事ではない。しかし、カン・ジェオン教授の指摘通り、それは“朝鮮側から見れば、日本の国内事情を対外関係に拡大させた無理な難題”であることに違いない。そしてそれは、8年後である1876年、不平等な江華島条約を結ぶ事で、明治日本が朝鮮を半植民地化する征韓論の序論だった。

 

 

 

皇国史観の再版

 

 

自由主義史観研究会の対談講演に出た藤岡と井沢の二人が、壇上に並んで座り、歪曲された韓・日関係史と韓国像を選定する姿は、事実、さほどこと新しい事ではない。彼らはすでに、50余年前に大手を振って歩いた帝国主義日本の植民史観・韓国史観の内容を、再び反復するだけだ。だから、すでにその間違った正体が暴露され、今は輝き褪せた古着の様に捨てられている、狭量な日本民族主義者の話に、いちいち言い返す必要があるのかと反問する人が居るかも知れない。また、日本人の大多数が、藤岡グループの立場を支持こともなく、尚且つ、東アジアで望ましい韓・日関係の発展と、21世紀日本の新しい進路に対して苦悶する、良識ある多くの日本知識人達が、彼らの危険な発想法と狭い思考方式に今警鐘を鳴らしている場面に、我々が出て、可否を問うことは蛇足かも知れない。

しかし、藤岡グループの歴史書き換え運動は、日本の教育現場で相当な共感帯を広げて行っているし、政治家たちの間でも、新保守主義の精神的滋養分を提供している。そのため、彼らの発想と思考方式の危険性を指摘、批判せざるを得ないのだ。さらに、彼らは幅広い人気を享有している‘国民作家’司馬遼太郎の‘司馬史観’を、自分たちの神輿の上に丁重に奉り、自由主義史観研究会のラッパを騒々しく吹き鳴らしているために、さらに注目する必要がある。(次回に続く)

 

(訳 柴野貞夫 2010・8・11)

 

 

○次回訳予告

「藤岡と言う人物 ―挫折と変身の化身―」(170p~178p)






参 考 サ イ ト

日 本 を 見 る - 最 新 の 時 事 特 集 「日本主義者の夢」 キム・ヨンボル著 翻訳特集