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キム・ヨンボム著「日本主義者の夢」プルンヨクサ社出版、日本語訳連載 21)



―朝鮮人による司馬遼太郎の歴史観批判―





[第3部]


藤岡現象は、一過性なのか?

 

 

(原書 178p~185p)

 

 

 

 

藤岡現象を、少し深く分析する為に、まず、いわゆる歴史周期説を探って見る様にしよう。歴史周期説は、政治的な思想と運動が、一定した期間を置いて時計の振子の様に反復されると考えるものだ。

これと関連して、米国政治史では30年周期説が提示された事があるが、この理論は著名な歴史学者、オットー・シュレジンジャー2世が≪米国歴史の周期(The Cycles of American History)≫(1986)と言う著書で、初めて理論化させた概念だ。それによれば、米国政治史で保守と進歩と言う二つの種類の政治思潮が30年間隔で、優勢と劣性の時期を代わるがわる繰返しをして来たと言う。20世紀を探ってみると、1900年に‘進歩の時代’が始まり、1930年代にはルーズベルト大統領のニューディール政策が広がり、また30年が過ぎた1960年には、ケネディー大統領のニューフロンティア政策が施行された。シュレジンジャーの周期説によれば、今のビル・クリントン大統領は、1990年に準備された進歩の土壌の上に誕生した民主党大統領だと言う解釈が可能だ。

 

 

 

 

日本主義の30年周期説

 

米国政治史と同じように、日本政治史にも周期説がある。ヨーロッパ化と国粋主義、インターナショナリズムとナショナリズムのサイクルが、明治維新以後殆んど30年ごとに、現れたり消えたりしたと言う主張だ。‘日本への回帰’と言う用語を使用し、こんな周期的現象を観察した最初の学者は、哲学者宮川透だった。

 

それによれば、明治初年(1868)から1880年代までの西洋化による文明開化と啓蒙運動に対する反動として、1890~1900年代に第一次‘日本主義回帰’現象が生まれたと言う。

 

第二次‘日本への回帰’現象は、1920年代の民主主義思潮とコスモポリタン的風潮に対する反作用として1930年代に現れた。日本の精神風土を積極的に肯定した文化史が、和辻哲郎、仏教の禅思想を中心として東洋哲学と西洋哲学の接ぎ木を試みた哲学者西田幾多郎、仏教思想の西洋伝播に大きく貢献した仏教学者鈴木大拙、そして西田を元祖とする京都学派の思想と理念は,この様な1930年代の国家主義的風潮を代表したと見る事が出来る。

 

第三次‘日本への回帰’の波濤が押し寄せるのは、1950~60年代だった。第二次世界大戦後のインターナショナリズムとアメリカニズムに対する反動として日本主義が勃興したのだ。竹山道夫の日本文化再評価論と、林房雄の大東亜戦争肯定論が、その時期主流を果たした代表的な日本主義的主張だ。

 

 

 

 

日本への回帰‘第四の波濤’

 

第四次‘日本への回帰’の波濤は、1980年代から静かに起こり始め、1990年代に一度に表面化された。1988年、保守右派政治家兼作家である石原慎太郎が、反米的な著作≪NOと言える日本≫と、1995年から日本近現代史肯定論の立場で、教科書を新しく書き換える運動を繰り広げる、西尾幹二と藤岡信勝などの主張がこの第四の波濤に該当する。

 

この四つの‘日本への回帰’は、どんな共通点を秘めているのか、これに対しては宮川の30年周期説に依って、政治思潮の変化を説明する一ツ橋大学中村政則教授の話を聞いてみるのが良い。

 

“共通的に見えるのは、伝統の再評価と日本民族優秀論、そして日本国家の復権要求だ。この様な国家主義のサイクルは、或る意味で近代日本特有の‘運動法則’の様なものとして、何年か経てば鎮静されるものと考えられるが、そうだとして完全に無視することは出来ない。特に最近の新しい傾向は、歴史教育の現場に大きな影響を及ぼし始めたと言う点で更にそうだ。”

 

周知のように、日本は明治維新によって江戸幕府の封建的幕藩体制が崩壊された後、東アジアでは初めて国民国家を誕生させた。それが即ち日本近代化の始まりだ。歴史上、初めて‘国民’(実際には、臣民と指称した。)と言う概念を得る事となった日本人は、1889年‘大日本帝国憲法’を制定し、歴史小説家・司馬の表現を借りれば、‘明治と言う国家’を作った。司馬と、その史観を信奉する藤岡は、その‘明治と言う国家’を、露日戦争で大国ロシアに勝ち、朝鮮と台湾を植民地にして経営するぐらい、‘成功した偉大な国民国家’と考えている。

 

彼等は、‘明治国家’の成功要因を、国家と国民が一体感を成し遂げたところに探し求めている。即ち、ナショナリズムの高揚によって、ようやく‘国民’であることを自覚した日本人が、‘明治と言う国家’を自分の意識の中に絶対化することで可能だったと言うのだ。

 

それだけでなく、彼等は、明治国家が長い間、京都の宮廷の中で伝統的土俗宗教である神道の大神主として、ずっと仰ぎ奉った天皇を、地上の政治世界に引きずり込み、天皇を頂点とする大日本帝国の絶対化を実現することに成功した。この様に日本国を絶対化した歴史観が、即ち1890年代完成した‘国史’研究によって構築された皇国史観だ。

 

この様に、‘偉大な明治時代’の皇国史観から由来した‘日本への回帰’と言う狭量な日本ナショナリズム(日本主義)の水脈は、大きな歴史転換の山に直面する時毎に、地表面に滔々たる水流を湧出させたりしたし、その時毎に、歴史教育を通した日本国の絶対化が強化された。

 

 

 

 

絶対化した日本国と、相対化した日本国

 

しかし、日本国を自己認識の起点として絶対化した、明治ー昭和前期時代の歴史観と歴史教育は、1945年敗戦と同時に大きく変わった。愛知教育大学の土屋武志教授の様な学者達によれば、戦争前、日本一国だけを中心に大日本帝国の歴史を考察して形成された‘絶対化した日本国’が、敗戦後、世界の中の日本と言う立場から歴史を考察する過程で、‘相対化した日本国’に変わってしまったと言う。言い換えれば、同一な場所(空間)に存在する日本国が、時間の格差によって全く別個の二つの日本国、即ち‘絶対化した日本国’と‘相対化した日本国’の姿に、日本人の自己意識の中に描かれてしまったと言うのだ。

 

土屋教授は、藤岡グループの歴史教育改革論が、“戦後‘日本国’の歴史教育を否定的に評価する中で、批判を受けた戦前の歴史、即ち‘大日本帝国’の歴史を肯定的に把握し、今日の‘日本国’と過去の‘大日本帝国’の‘一国史的’統一性を試みたもの”として見ている。言わば、藤岡グループは、戦後歴史学者達が解決出来なかった‘別個の二つの日本国’の存在を、全体的に日本の歴史を肯定する‘自衿史観(誇りの歴史観)’を持って統合しようと試みていると言うのだ。

 

この様に日本の中では、藤岡グループの史観変革運動を、ある程度肯定的に評価する学者たちも存在する。これは戦後日本の歴史学が解決出来なかった課題を、藤岡グループが試みていると見る為だ。

 

それだけでなく、藤岡グループの日本肯定運動は、冷戦体制崩壊後に現れた民族主義の再勃興現象の中で、日本人としてのアイデンティティー確立を渇望する国民的要求に沿うと同時に、敗戦以後日本人の心の中に、そのまま仕舞われて来た愛国心を充足させてやっていると言う点でも、無視できない共感隊を確保したものと見える。

中村政則教授は、そんな‘日本肯定’を、‘日本への回帰’と言う用語で説明しただけだ。彼によれば、藤岡グループが声高に要求するのは、‘大日本帝国’の消滅とともに失ってしまった‘日本と言う国家’を‘復権’させる事だから、そんな‘復権’が可能になるためには、過去日本の歴史を肯定する作業が、成し遂げられなければならない。

そうであれば、この様に、アジア侵略にまみれた明治時代に対する称賛、露日戦争の礼賛の様な近現代史の‘誇らしい事’だけを浮き彫りにさせる藤岡式の‘日本国復権運動’は、果たして成功する事が出来るのか?

 

過去史の‘恥ずべき事’と、国家が犯した歴史的過誤に対しては目を閉じて、日本人の記憶から消して仕舞う事にだけ没頭する藤岡グループは、過ぎし日の‘大日本帝国’ の様に、今日の日本国を‘絶対化’する事で又再び帝国主義を指向する事は無いだろうか?

 

日本主義者達が、自慢として考える‘明治と言う国家’の栄光を取り戻し、そこにナショナルアイデンティティーを確立しようとする試みは、19世紀の思考方式を持って、21世紀に対応しようとする不適切な解決策に他ならない。世界化(グローバリゼイション)、無国境化(borderless)、情報化で特徴付けられる21世紀は、今日の‘小さい政府’の実現で表現されている様に、国家の機能が大きく縮小されたり弱くなる時代だ。さらに国家間の互いの依存性が昔の村落共同体内部の相互依存性よりも更に強くなっている為に、他民族の存在を尊重する‘開かれた心’で国際社会に参加する事を要求している。こんな21世紀の到来を目前において、自民族優越意識を鼓吹させる日本中心の狭量なナショナリズムを叫ぶのは、むしろ、日本自らを孤立化に追いやって行く可能性が大きい。

 

 

 

 

藤岡現象の生命力

 

一方では、‘記憶との戦争’を広げる藤岡グループの日本主義が、長く続く事が出来なくて挫折するだろうと見る見解もある。30年周期説を受け入れた中村教授もまた、藤岡グループの国家主義が、いつの日かは鎮静されるものと展望した。事実、彼らの自由主義史観運動が成功する事には、内外に制約要素が多い。日本国内でも批判論が手ごわいだけでなく、対外的にも日本人の狭量なナショナリズムを警戒する声が強力に提起されている。特に、藤岡グループの教科書書き換え運動が、韓国、中国に対する過去史の反省を固辞し、徹頭徹尾、二つの隣国に対する配慮を排除していると言う点で、これを警戒する声が高い。

 

しかし、そうであっても、藤岡グループの運動がやすやすと活動エネルギーを失う様には見えない。事実、歴史の長い眼識でみれば、自由主義史観研究会は‘いっ時’勃興したあとで、衰えてしまう流行風潮である事もある。しかし、現在を生きている我々に、その‘いっ時’と言う時間は、‘一時代’に該当する決して短いとばかり言う事が出来ない時間だ。

 

前に言及した30年周期説は、一時代を主導して行く世代交代の間隔が、大略30年と言う前提の上に成り立っている。即ち一世代が過ぎた思考方式の主流が、次の世代によって交代される事で、時代の思潮が変わると言う事だ。そんな周期説を受け入れるとしても、第四の日本主義の波濤は、今後少なくとも20年以上、日本を巻きつけるものだと言う予想が可能だ。そのため、藤岡グループとその支援勢力らが吹きまくる日本主義イデオロギーの不吉な喇叭の音を、警戒しなければ駄目だと私は考える。

 

その上、彼らのイデオロギーは‘55年体制’の崩壊によって、過去の革新勢力が受け持った政治的牽制作用が極めて弱化された時期、言い換えれば1990年代に入り、急進展した日本社会の‘総保守化’の趨勢のなかで気勢をあげている為に、さらに警戒しなければだめだ。

 

しかも、今は、世界第二の経済大国日本が、政治、軍事的に大国化を追求している時点ではないのか。そんな時、‘日の丸’の旗幟(きし)をはためかし、日本国の絶対化を試みる藤岡グループの運動は、経済大国―政治・軍事小国間の不均衡を是正しようとする動きと直結されていると言う事が出来る。

 

実際に、この二つの動きは‘日本国の復権’運動と言う点で一致している。だから日本の未来を心配する良識ある知識人達の間では、藤岡グループの史観変革運動を、政治・軍事大国化を達成する為の民間部門の役割分担として解釈する見解も存在する。

 

藤岡現象は、一~二年の間浮上して、沈没する一過性の現象ではない。それは、中川(故中川昭一農水相のことー訳注)の妄言が語ってくれる様に、日本の一部若い世代達にも一定の訴える力を持っているので、今後も相当な生命力を発揮するものと見える。

藤岡グループが主唱する慰安婦などの、教科書記述削除と言う行動綱領は、戦術的次元で取り換えられるのかは分らないが、史観変革の要諦である日本主義の復活の動きは継続されるものと展望される。

 

そうであれば、藤岡現象は21世紀の日本をはたして何処へ引っ張って行くのか、この様な不吉な社会現象の黒い雲が、日本列島で引き起こす史観と理念の怪異な風雲遭遇は、我々をして憂慮の心を隠さずにはおかない。



(訳 柴野貞夫 2010・11・6)



<次回予告>

 

○「第四部」 現代版、日本アジア主義の台頭




参 考 サ イ ト

日 本 を 見 る - 最 新 の 時 事 特 集 「日本主義者の夢」 キム・ヨンボル著 翻訳特集