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キム・ヨンボム著「日本主義者の夢」プルンヨクサ社出版、日本語訳連載 22)



―朝鮮人による司馬遼太郎の歴史観批判―





[第四部]   現代版日本アジア主義の台頭

 

 

 

"新アジア攘夷論"

 

(原書 189p~193p)

 

 

1988年ベストセラー≪NOと言える日本≫で、“日本の半導体をソ連に売って、米国には売らないと言えば、それだけでも軍事力の均衡は破れてしまう。”と怒号した石原慎太郎が、再び反米の旗幟を挙げた。しかし、今度は日本単独だけの反米ではなく、諸国と日本の連帯を露骨に提唱したと言う点で、過去とは大きな差を持つ。

彼は、<日本は、米国の金融奴隷ではないー新アジア攘夷論>(≪文芸春秋≫1998年8月号)を持ち出して来たが、ここで、‘攘夷’と言う言葉は、江戸幕府末期に西洋勢力を排撃しようとして掲げたスローガンだ。そのため、石原の現代版攘夷論は、米国排撃論と言う事が出来る。

 

彼は、基本的に1997年に発生した東アジアの金融・通貨危機が、米国の世界金融戦略に起因するものと信じている。インドネシア・マレーシア・タイ・韓国など、東アジアの通貨危機を契機に生まれた経済不安とその後の国際通貨基金(IMF)の進出を見ると、“金融による米国の世界支配戦略が露出される”と見るのが石原の持論だ。彼はそんな米国の金融戦略をこのまま放置すれば、“東南アジアの諸国も、米国に使役される金融奴隷にならざるを得ない。”と警告した。

 

 

 

歴史的責任を背負って

 

そうであれば、米国の金融奴隷とならない為には何をしなければならないか、これに対し石原は、米国に対し極言もためらわず次のような熱弁をふるった。

 

“我々は、米国が殺戮しようとする東アジアに対する歴史的責任を土台に、これらの諸国(東アジア)と新しい連帯を結び、自らを守る戦略を打ち立てなければならない。このため、‘fair  and free’と言う枠の中で彼らにアジア的標準を広げるのが良い。(中略)アジア諸国が、米国の金融戦略の植民地となる事態を阻止する為先頭に立たなければならないのではないか。私は、それが他の何よりも日本自身を守護する為の不可欠な姿勢であり方法であると信じる。”

 

石原は≪NOと言える日本≫で、脅迫に近い大声を叫ぶ事はしたが、米国を排斥する事はなかった。

“米国がヨーロパの国家でないように、日本もアジアの一国家ではない。日本人は、日本が本質的に島国でないと言う事を自覚しなければ駄目だ。” こんな認識を基礎に、日本と米国が中心となり‘新しい世界の秩序と文明’を主導しなければならないと言うのが、当時の彼の見解だった。

そんな彼が遠慮なく、日本の決然たる‘対米抗戦’を宣言したのだ。のみならず、彼は“戦後日本が面倒を見てやって、遂に効果を見た東アジアを助けるために、”日本自らが歴史的責任を負って乗り出すのだから、東アジア諸国も‘対米抗戦’の隊列に同参せよとまで催促した。

 

そうならば、いま日本は米国の世界金融戦略に面して‘対米抗戦’を決行する位の力を持っているのか?これに対し石原は、優越した技術力と過去の経験を土台としたノウハウ、そしてそのノウハウを有効に行使する事が出来る金融資本を日本が保有していると大口を叩いた。

 

“米国は、対外債務が約一兆ドルであるのに対して、日本は対外資産を約一兆ドルも持っている。これを見ても日本は世界第一の債権国家ではないか、そんな日本が長期間経済疲弊状態にあるのは‘道理に適う事もなく、不自然なのだ。’さらに尚、米国の金融戦略に巻き込まれ金融奴隷になるなんて、それは言語道断だ。‘万一日本が保有している米国国債を全部売ってしまったら、ドルは今すぐ下落し為替レートが1ドルに対し50円になると専門家達が予測している(1998年8月現在レートは140円)、’”

 

1950~60年代の若い時期人気作家として活躍するが、自民党の衆議員に当選し政治に入門した石原(1932年生まれ)は、運輸相と環境庁長官まで経験した国粋主義者だ。しかし今は、政治から手を離し(訳注→この著は、1999年に出版された)日本の権威ある文学賞の芥川賞審査委員を受けるなど、再度執筆生活に没頭していた彼が、爆弾宣言として持ってきた‘新アジア攘夷論’は、詳しく読めば読むほど現代版アジア主義の臭いが漂う。彼の‘新アジア攘夷論’は≪宣戦布告―NOと言える日本経済≫と言う単行本も発刊され、人気裏に売られている。

 

 

 

 

アジア主義は、日本右翼の源流

 

新しい顔を見せるこの現代版日本のアジア主義は、元来、明治国家が韓半島と中国大陸に勢力を拡大するのに基盤となった侵略思想であって、その原点は明治維新の一等功臣・西郷隆盛の征韓論だ。

 

韓国を討つ意味の征韓論から起源したアジア主義は、1880年代の反政府の立場から政治活動をした樽井藤吉の興亜論で、理論的原型を整え細い幹を形成した。

 

一方、アジア主義の亦異なる幹は、日本がアジアの文明を主導しなければならないと言う持論を広げた岡倉天心(1862~1913)のアジア盟主論に起源し、以後、大川周明(1886~1957)によって継承・発展された。大川は、大東亜共栄圏の思想を普及・拡大するのに力を注いだ、徹底した国家主義者として、太平洋戦争の終戦後にはA級戦犯として目星を付けられたが、精神病を理由に裁判を免れた人物だ。

彼は日本民族が“アジアに対し、偉大な使命と責任を背負わなければならないこと”を強調した。

 

日本の韓半島侵略とアジア主義の思想を研究したカン・チャンイル(姜昌一)教授は、“近代日本のアジア主義的心象と発想は、自己完結的な対外思想の水準にまで引張りあげたのは、右翼の大アジア主義”であったし、彼ら右翼のアジア主義論は、日本帝国主義の政策より一歩先立って提起され、日本の大陸侵略を先導して行ったと把握した。

 

そうであれば、アジア主義が理論的基礎としている‘アジア的発想と心象’とは何を言うのか。それは即ち、‘同文同租’と‘脣齒輔車(しんしほしゃ―持ちつもたれつの関係)’意識だ。モンゴル人・満州人・韓国人・日本人は、元来同じ祖先から分かれ出た民族であり、従って彼らの言語は同じ親族系列に属すると見るのが同文同租論だ。

 

以前に、司馬遼太郎が、韓国人と日本人の祖先がシベリア・バイカル湖付近で移動・定着したスキタイ文明の遊牧民続と主張した事と、韓国語、日本語、ツングース語、モンゴル語が同じアルタイ語系統の親族語だと見た事は、すべての同文同租論と脈を同じくするもので、その点で司馬の発想法はアジア主義者達と連結されていると言う事が出来る。

 

一方、脣齒輔車(しんしほしゃ)論は、唇と歯、車の両側につけたあて木と車輪が、互いに頼って手助けすることの様に、東アジア諸国家が互いに団結し連帯して、共栄の道を築いていこうと言う論理だ。

 

同文同種論が人種的言語的近親性を前面に押し立てているとすれば、

脣齒輔車論は地政学的同質性を協調している。近代日本のアジア主義者達は、この様な発想法の土台の上で‘アジアは一つ’と言うスローガンを高くかかげ、‘アジアは一つ’と言うスローガンを押し立て、アジア文明の建設と大東亜共栄圏の構築を主唱するのだ。

 

 

 

 

 

‘アジアは一つ’、アジア盟主論の危険性

 

(194p~196p)

 

 

 

同文同種論で知る事が出来る処と同様に、アジア主義者達がでっち上げてきたアジア主義の理論的枠組みは、西洋対東洋、白人対有色人の対立構図に立脚している。無論、ヨーロッパ文明対、中国文明―インド文明の対立方式に理論を展開するアジア主義者達もいるが、それもやはり基本的には西洋対東洋の対立構図だ。これらの主張は、予め近代化を達成し冨強された西欧資本主義の諸国が、食べ物を探す蜂の群れの如く、アジアに群がり集まる状況で、彼らに飲み込まれないようにしたければ、東洋の団結、即ちアジアの連帯を通してアジアを強くする道以外にないと言うのだ。こんなアジア主義の源流は、前に指摘した通り、樽井の興亜論だ。

 

 

 

樽井の興亜論

 

樽井の興亜論は、1893年に発刊された≪大東合邦論≫に、尤もらしく展開されている。樽井は、元来1885年にこの書の初稿を執筆したが、それを紛失するはめとなり、また執筆し、5年後に単行本を発行した事で知られている。

樽井の東洋団結方式は、こうである。韓、日二国の民族は同じ東夷族だから、予め二つの民族が対等な立場で合邦(併合)して大東国を建設し、その次に中国と連帯を構築すると言うことだ。彼の大東合邦の構                                                                                            相によれば、韓・日は種族的・文明的同質性で、中国とは地政学的・文明的近親性で、三国の運命共同体を作らなければ駄目だと言うのだ。

 

樽井の興亜論が、アジア主義の源流を形成していることは間違いないが、アジア主義の長い流れから更に大きな影響を及ぼしたものとしては、何と言っても岡倉のアジア文明論を指折り数えない訳にはいかない。日本アジア盟主論にまで発展した彼のアジア文明論は、今日、日本で活発に論議されている所謂‘アジア的価値’論の原型として日本の学者達により再論されている。その点で彼の理論は少し詳しく紹介・批判する必要がある。岡倉の思想は、1903年に英語で書いた≪東洋の理想>と言う論文で集約されている。ここで彼は‘アジアは一つ’と強調して語った。

 

岡倉が考えるアジアは、樽井に比べ、地域的に非常に広く、イスラム文明までもアジア文明の範囲に包含される。しかし彼のアジア観は、基本的に中国文明とインド文明が、二本の大きな幹を形成した物として見る。この頃の言葉で表現すれば、二つの文明がアジア的価値の中心にあると言う立場だ。しかし古代文明として燦然たる光を発した二つの文明が、近代に入って、欧米の植民主義と帝国主義の攻勢によって崩壊の道に入る事に伴って色褪せてしまった。そうであるが、二つの文明が創出したいろんな芸術と美、或いは文化は、日本に入ってきて独自的な様式として開花したと岡倉は主張する。中国とインドの社会が、西欧勢力の侵略で瓦解されたとのに反し、日本だけがアジアで唯一近代化に成功する事が出来たと言う事実に、岡倉は大きな意味を付与した。彼によれば、二つの文明の成果を投入し再創造した新しい文明が日本には存在すると言うのだ。そうであるから、日本はアジアの美と価値を総括し、集約し、世界に出して見せる必要が切実だと言うのだ。

 

岡倉は又、アジアには、西欧にない美と価値と伝統が明らかに存在するため、‘アジアは一つ’とも言った。彼は西欧文明に対抗する為、アジア文明を発展させる日本の文明史的使命を、‘アジアは一つ’と言う観点から力説したのだ。しかしこのとき、岡倉は単純に、日本がアジア文明を主導しなければならないと言う程度ではなく、‘日本がアジアの盟主’だと、断固として強調した。

 

彼の、<東洋の理想>をアジア盟主論と呼ぶ訳は、即ちこの為だ

 

(訳 柴野貞夫)

 

 


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