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教育三法改正(学校教育法、教員免許法、地方教育行政法)は、国家権力の教育支配に対する制約を取り除いた、違憲行為である。



改悪教育基本法は、「行政裁量」による際限なき国家介入、「徳目」による教育目標の国家管理、[憲法の平和理念]の否定である。



2006年12月15日、安倍自民公明政権は、教育基本法(以下教基法と言う)改悪を強行し、教育に対する際限なき国家介入への道を拓いた。 それは、日本国憲法の二つの基本理念、即ち、国家権力に対しては国民主権の行使によってそれを制約し、平和主義によって戦争と軍隊の放棄と集団的自衛権を禁止すると言う、平和憲法の精神を、教育の場で全面的に否定する違憲立法であった。具体的に言えば、改悪教基法の狙いは次ぎの三点に要約できるであろう。教育に対する、国家権力の行政裁量による際限なき介入と、徳目の設定によって、国家が教育目標を管理強制し、教基法前文の「平和を希求する人間の育成」と言う文言を削除して、憲法の平和主義を否定すると言う点にある。  現在、この改悪教基法の狙いの具体化こそ、安倍政権の次の企みである。 関連する教育諸法規の改悪作業が、安倍内閣官房の直属機関、「教育再生会議」によって進められている。

それは、まず、学校教育法改正案、教員免許法等改正案、地方教育行政法改正案の、いわゆる教育三法を手始めに、他の教育法規を三年がかりで改定しようとするものである。 文部省は、同時にこれ等に沿う形で、「行政裁量による国家権力の介入」に他ならない「学校指導要領」(法ではない)の改訂作業を始めている。 




日本国憲法と教育基本法は、共通の理念にたっていた。




今、前教基法が日本国憲法の理念と規定に分かち難く結びついていた事を想起すべきである。 第10条が、「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」と規定するのは、アジアと自国の民衆の血の犠牲の上に、私的利益を追求した日本帝国主義者とその代弁人である天皇制国家主義者どもの、国家権力の暴力的乱用を再び許すな!と言う歴史への痛切な総括にたって、教育の国家による介入統制から、国民の教育権を守り、国家による国民の権利侵害を許さないと言う日本民衆の決意を明記したものである。

それは、憲法の規定である第13条(個人の尊重)同19条(思想、良心の自由)同23条(学問の自由)同26条(教育を受ける権利)を教育の場で具現したものだ。「不当な支配」とは、主に「国家権力の支配」をさし、「国民全体に対し直接責任を負う」とは、教育者と関係者が、国家や行政に対してではなく、子供と国民に対して直接責任を持つことを意味していた。





改悪教基法は「法」の「主客」を取り替えて、教育を支配の道具にしようとしたいる



しかし改悪教基法は、第10条「国民全体に対する直接責任」を削除し「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」との文言に置き換えた。

「法律の定めるところ」とは何か。 「省令」「政令」と言った、国家権力とそれと連動した地方行政権力が、「その行政的裁量でだす一方的な命令」を多く含み、しばしば憲法の国民主権の理念や国民の諸権利を侵害する場合が多い。教員の管理制度、勤務評定、教科書検定、一斉学力テスト、日の丸君が代強制職務命令等、前教基法の下でも、国家は、この「行政裁量」を日常的に乱用してきた為、国家による不法行為として無数の違憲訴訟が行なわれてきたのだ。(教育現場以外でも、“NHK放送命令”などがそれである。)従って、安倍右翼国家主義政権は、彼等の権力介入を縛る10条の規定を削除、「行政裁量」によって、まず、教基法を、国家による教育支配の道具にしようとしたのである。





2006年9月、東京地裁は、東京都が03年10月23日東京都教委通達により教職員に対して「国旗への起立、国歌斉唱」の職務命令をだし,それに従わなかったとしてその後3年間に345人もの処分者を出したが、それを不当とする教職員による「予防訴訟」に対し、明確に「違憲判決」を下した。



判決は、都教委の命令が「憲法19条が保障する思想、良心の自由の侵害」であり「教基法10条によって不当な支配にあたる」と断じた。



この事からも、前教基法10条の規定が、憲法の保障する国民の諸権利と一体であることと、それが安倍徒党とその国家権力による教育支配にとって大きな制約となっている事を明らかにしている。

 



安倍は「愛国心」の徳目で、子供に侵略戦争で喜んで死ぬことを要求している。





前教基法の前文において、教基法の目的が「日本国憲法の理想の実現を根本において、教育の力に待つべきもの」にあり、教育の目的が「真理と平和を希求する人間の育成」にあると、宣言したのは、他でもなく憲法前文及び第九条を貫く平和の理念と固く繋がっているからである。 安倍右翼集団は、改悪教基法でこの平和の理念をすべて削り取ったのだ。戦争国家への願望を教育に持ち込み、「国家主義にもとずく人間の育成」を狙っているのだ。

安倍は、04年11月27日、或るシンポジュームでの講演で愛国心を取り上げ、「国が危機に瀕したとき命を捧げるという人が居なければ、この国は成り立たない」と甲高い声で叫んだ。(靖国神社崇敬奉賀会主催シンポジューム、記録集。「受け継がれた心」安倍晋三。) 資本家階級どもの、私的利害以外の何者でもない戦争に、「愛国心」教育によって子供に死ぬことを要求する軍国主義教育をすると公言したのだ!



改悪教基法は、第2条において、教育目標として5項目20以上の「徳目」を設定し、第6条において「学校において教育の目標が達成される様、体系的な教育が行われねばならない。」と、それ(徳目)を義務ずけ、国家による教育目標の管理によって、教師と子供の思想と行動を支配しようとしているのである。





国が教育目標を管理し、教師の上下を決め、学校を評価区別する教育体制とは一体なんであるか?





現在、「中央教育審議会」が骨子を作り[教育再生会議]が検討する教育三法の改正のねらいは、改悪教基法の具体的日常的展開にほかならない。





「学校教育法」改定案においては、改悪教基法第2条(教育の目標)に沿って義務教育の目標として「徳目」を規定、学習指導要領もそれにそって、歴史の歪曲と、愛国心を軸に国家主義的目的を持った目標管理を行おうとするつもりだ。強制連行、従軍慰安婦、南京虐殺、平頂山事件は「証拠がない」、自虐史観だと「指導」する国家の介入が狙われている。国家や行政が学校の運営管理を「評価指導」し、教育現場の丸ごと支配が意図されている。

安倍は、その題名に似つかわしくない、グロテスクな国家主義の未来に言及した著作("美しい日本“)で、次ぎの様に主張している。「学校の管理運営、生徒指導に於いて国が問題と見なした学校は教師を入れ替え民営化への移管を命ずる」と。これはもはや教育のフアシズム体制というべきだ。




また改定案では、学校に新たな管理職を置き(副校長、指導教諭、主幹教諭等)教師集団の中に支配するもの、される者の関係を通して教育現場に抑圧体制を持ち込もうとしているのだ。

「教員免許法等改正案」では、免許を10年毎に更新し講習の義務を課し、「指導が不適切な教師」への処分を、国家や行政の裁量で行う事により、国家のイデオロギーの意に沿わぬ教師を排除する危険性は、東京都の「日の丸、君が代処分」を見れば明らかであろう。

地方教育行政法改正では、いじめ問題を口実として教委への国家の関与の「必要性」を主張している。更に私学教育に対してまで、「指導、助言」の必要も提議するなど国家による教育支配への動きは加速している。





「教育再生」の言葉に隠された権力の企み





これ等教育法規の改悪行為は、日本の資本家階級による働く民衆への非人間的搾取によって生み出された日本社会の混乱、日経連会長に代表される資本家どもの偽装労働と言う反社会的脱法行為、慰安婦問題に見る安倍右翼政権の腐敗した人権意識や大衆欺瞞など、権力と支配階級自らがが生み出した、社会的モラルの低下や人間関係の荒廃の原因を、あたかも働く大衆や、戦後教育と教育法規のせいにすり替え、「教育再生」と言う大衆欺瞞の言語を用いて一挙に、国家主義による教育支配がその解決手段かのごとく装わんとする意図にもとずくものである。

教育三法改正論議を一貫して流れるもう一つのイデオロギーは、貧困層の拡大社会的弱者の遺棄、働く民衆への苛斂誅求的搾取を生み出している原因に他ならない「市場主義、」を、教育の場に持ち込もうとするものである。一斉学力テストによる学校の差別化は、教師と子供と学校を、階級分裂に投げ込み、大学における「競争原理の導入による予算配分」(4月23日教育再生会議での確認事項)は、大学の自治を退廃させるものとなるに違いない。

憲法改悪と教育三法改悪は、日本社会を、資本家階級とその代弁人である右翼国家主義者どもによる抑圧社会へのみちである。あらゆる職場や学校、グループや家庭から、反撃の声を上げて行こう。