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2.13共同声明の誠実な履行によって、極東アジア平和への展望が生まれる


● 安倍首相と日本政府は、「拉致問題」を利用して、極東アジアの平和構築の破壊(9条破棄と、軍事大国化)を企んでいる。
● 核軍備撤廃に向けた取り組み義務を拒む米国と、在日米軍の核の検証を実行できない日本に、北朝鮮の核を非難する資格がどうしてあるのか。

○北朝鮮の核開発をめぐる6カ国協議が、213日共同声明を発表した。朝鮮半島非核化への道筋を示すことが出来た点で、また極東アジアの平和構築への希望が生まれた点でも評価出来るであろう。あらゆる国の核保有の廃絶と、極東の平和を求める我々、日本の民衆にとって、歓迎すべきことである。しかし、”北の核武装”をめぐる論議の中で、以下の諸点を確認しておかなければならない。アメリカは、北の核を非難する一方で、核保有国の中にあって、自らは”非核保有国”に対する”廃絶に向けての国際的な義務の履行(NPT・核不拡散条約による取り決め)を無視する所か、非核保有国を核によって脅しつづけ、尚且つ禁止されている新たな核兵器開発(小型化・地中貫通型等)や、既存核弾頭の更新を続けながら、”核不拡散のため”と称して、非核保有国諸国の核エネルギーの利用さえ、制限・圧力を加えてきたという事実。また、6カ国協議を構成する米・露・中は紛れもない核大国(エネルギー使用と核兵器において)であり、日本・韓国は非核保有国と言いながら、米国との軍事協力・同盟関係の下で、自国領域と広く極東の海・空域に米国の核弾頭を搭載する戦艦・爆撃機を配備している事にも、目を向けなければならない。その上、日本は米国に対して、”小型核の研究開発”に反対していない。米国が開発する”小型核”(5キロ未満の爆発力)は、核の通常兵器化であり、民間被害に計り知れない影響を及ぼすものである。米国は、”小型核兵器を通常兵器と一体化することは、死活的”と非核保有国に対する核兵器の使用を具体的に想定し、通常兵器並に位置付けている。(053月 「統合作戦ドクトリン・最終章) 唯一の被爆国、日本がこれを容認することは、犯罪的である。

米国は、”イスラエルの核保有”は容認し、イランの核を口汚く攻撃する態度同様、北朝鮮のプルトニウムの保有に対しては、苛斂誅求に追求するが、日本の大量のプルトニウム保有には口を噤むのである。日本は、原発から出る使用済み核燃料を再処理して、プルトニウムを作り、軽水炉や増殖炉で燃料として使用すると言うが、その量は、”200~400発の核兵器製造能力”を持ち、北朝鮮の一桁の量とは比べる事も出来ない程である。(04年、ワシントン、公開討論会での試算) 日本は、IAEA(国際原子力機関)の査察は受けてはいるが、中川政調会長や、麻生外務大臣の”北朝鮮に対抗して、核保有の論議も必要”と言った反社会的、反人間的腐敗発言が出て来る下地も、ここにあるかも知れない。

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カ国協議の共同声明と、今後の行方を読み取ろうとすれば、少なくとも上に述べた事実は確認すべきだろう。我々は、北朝鮮と言う弱小国家が、アメリカと日本によって戦後60年間、絶えず”反共包囲網”の下で攻撃目標とされて来た事を思い返すべきである。”核の脅し”に何よりも反対してきたのは、北朝鮮であると、逆説的に言えば言えるのだ。北と南は、1950年、朝鮮戦争から53年の”休戦”を経て、現在も”終戦”を迎えていない。アメリカ帝国主義と、その同盟国である軍事独裁時代の韓国と日本による半世紀にもわたる軍事的圧力と対立関係がなければ、この国は民衆の生活を削り取ってまで、国家予算を無駄な軍事費に注ぎ込むことはなかった。(日本は、”共産主義との対決”を理由に、北朝鮮に対する植民地支配の清算を放置し、歴史的犯罪行為を自分勝手に免罪してきたことが、今日の歴史認識や教科書問題、靖国参拝に繋がって来たのだ。)

特に、”核”という広い分野の技術開発と設備に莫大な国家予算を手当てしなければならない軍事技術を持つことが、弱小国家にとって如何に負担であるかを誰よりも認識しているのは、北朝鮮の指導部である。そして、最も基本的な点であるが、資本主義世界市場をめぐって、帝国主義諸国は絶えず、その経済的利害と政治的対立を戦争と言う手段で解決しようとする契機をそのシステムの中に内包するが、”社会主義経済システム”を中心とする労働者国家には、基本的に戦争を必要とするシステムは存在しない政治的動機も働かない。

● 政治的目的を常に軍事力(戦争)で決着しようとするアメリカと資本主義体制に未来はない。
● 北朝鮮の核を非難する安倍自民党政権は、アメリカの核を日本に持ち込ませていないと言うなら、検証可能な方法でそれを証明しなければならない。

○「資本主義の繁栄とは、経済学的には要するに、膨大な浪費のクッションによる”均衡”の上に成り立っているものであり、軍需産業、ある種のサービス産業など、これら、膨大な贅沢品生産=浪費が基礎条件です。この浪費は、資本主義的な商品経済の論理からすれば、それは別段不当でもなければ、単なる浪費でもないことになります。資本にとっては、それはそれで立派に”生産的”なのです。」(「今こそマルクスを読み返す」講談社現代新書P190193 広松渉 ) 例えば、それを清算したからと言って、経済的には何も生み出さない軍事産業か、生産するミサイル・戦闘機・軍艦・原爆・ロケット・新型兵器等々、また車・レジャー用品等、巨大な”奢多品”の生産と消費が、現代資本主義を支えているのだ。資源と商品をめぐる世界資本主義市場での、各国の衝突の中で、この膨大な奢多品の”消化”を如何に進めるかは、資本家どもが常に考えていることだ。ブッシュとチェイニーが、アメリカの軍需産業を基盤とする政権であり、アメリカ自体が史上稀に見る巨大な軍事国家になってしまったのは、このような資本主義の構造そのものに原因がある。国家予算の20%強、5000億ドル(5253兆円)を軍事予算に計上する国家は、このようにして生まれて来た。朝鮮戦争もベトナム戦争も、アフガン戦争もイラク戦争も全てこのような資本主義体制が生み出した戦争である。働く民衆の運動の後退と”社会主義体制”の後退が、超軍事国家を生み出し、政治的課題を軍事力で決着をつけると言う帝国主義の極限の人間性腐敗国家を生み出してしまった。イラク侵略はその典型だ。

現代資本主義の巨大な価値の浪費が続く限り、自然と環境を破壊し、今後も資源を食い潰して行くであろう。これは、資本主義の末路でなくて何であろう。逆にいえば、これだけのふざけた”浪費”をしても、尚、維持できている現代資本主義世界の生産力は,この浪費を止めて、全世界の働く民衆の生活向上に向かう新しい社会の力であると言うことである。それはつまり、労働が生み出す余剰価値を搾取することによって生まれた生産力であり、それを取り戻す新しい社会の十分な基盤がある証明である。

社会主義は本来、資本主義的市場競争の政治的手段としての戦争を引き起こしたり、”奢多品”としての軍事製品を消費する為の場を、戦争に求めることを必要とはしない。北朝鮮の核武装は、戦争の為でなく、極めて防御的なものに過ぎない。だからと言って、我々が認められるものではない。)弱小”社会主義国”北朝鮮が、帝国主義諸国の侵略から自らを守るプレゼンスとしての軍備は持っても、自ら攻撃する必要な全く無いし、またその力も無い。それを、百も承知しながら、日本の帝国主義者とその代理人、安倍自民党は”北の脅威”を執拗に、繰り返し、民衆を愚弄している。

日本は、違法な”小型核兵器”を容認し、歴代内閣の機密引継ぎ事項として、アメリカの核の日本持込をを許し、日本にアメリカの核を持ち込ませていないと言うのであれば、安倍自民党政権は、日本の働く民衆と北朝鮮に対して検証可能な方法で、それを証明しなければならない。極東アジアの弱小国家を核で威嚇し、イラク侵略のアメリカの出撃基地を提供し、北朝鮮に対する戦処理を引き伸ばす安倍自民党政権に北朝鮮を批判する資格など、どこにも無い。安倍首相と自民党は、検証可能な方法で在日米軍の核の有無を国民に明らかにする事が出来るのか。憲法改悪によって、アメリカの帝国主義との軍事同盟を強化し、軍事大国化によって新たな”国家主義”で働く民衆を支配しようとする日本の資本家階級とその代理人、安倍自民党政権に対し、闘う民衆のみが”いかなる国の核武装にも反対”の声を上げる資格があるのだ。