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@戦後韓国の政治史〔李承晩から朴正熙暗殺まで〕

 

今年、2007年6月は、朴正熙(パク・チョンヒ)軍事独裁政権(1960−1979)の軍事フアシズム体制を、そのまま引き継いだ全斗換(チョン・ドフアン)軍事政権の後継政権である盧泰愚(ノ・テウ)に、1987年「6・29民主化宣言」を発表させるまでに追い詰めた、韓国民衆の戦いから20年目となる年である。 韓国現代史は、この戦いを「6月民主抗争」と呼んでいる。韓国民衆がこの戦いで勝ち取ろうとした理想はなんだったか?現ノムヒョン参与政権は、この理想に近ずいたのか?「6月民主抗争」に於ける〈市民運動〉と〈労働運動〉にはどんな問題があったのか?

 

朴正煕の前任者、李承晩(イ・スンマン)は、朝鮮戦争(1950−1953)をはさんで、アメリカ帝国主義による反共反社会主義包囲網の最前線としての役割を、アメリカと共に、南朝鮮民衆の民族独立運動に対する血なまぐさあい弾圧を通じて具現した。国連を利用した米国は、李政権と結託し朝鮮半島の南部だけの単独選挙を強行して、朝鮮半島の南北分断を固定化し、南朝鮮労働党と人民委員会《民衆コミユーン》に結集した朝鮮民衆の戦いに軍隊を投入し、指導者を軍法会議にかけ、赤狩りと称して苛斂誅求に弾圧し虐殺をほしいままにした。(その代表的なものが済州島4・3事件である。 2003年10月、盧武鉉政権は、1946年4月から始まった島民の、「単独選挙への抗議行動」にたいする、国軍による済州島島民虐殺事件の真相を明らかにする為の「4・3特別法」を制定し、「済州四・三事件真相報告書」を作成したが、そこで良民3万人の犠牲と、おぞましい虐殺のプロセスを明らかにしている。2005年12月1日、独立国家機関として発足した「真実・和解のための過去史整理委員会」は、日本帝国主義による植民地支配時から盧泰愚軍事政権にいたる一世紀に及ぶ軍・警察・国家権力による民衆の殺戮の申請を受け付け、調査を継続している。

 

1960年4月、ソウルの学生市民10万人の、李承晩の「不正選挙」抗議を直接の契機とする、民主化要求示威行動に向けられた銃弾は、180人を殺戮した。李は、南韓民衆の憤怒の嵐の中で、米国ハワイへ夫人と共に逃げ出したが、この、李承晩打倒の民衆の戦いを、横から簒奪したのが他でもなく朴正煕軍事政権である。もと(日本の)陸軍士官学校出身の憲兵で、日本名を「高木正雄」と名乗った朴による軍事独裁体制が、その後18年間、全斗換、盧泰愚を加えれば、31年間〔1992年11月まで〕に及ぶ究極の軍事ファシズム体制が、南部朝鮮の民衆を支配する事となったのである。

同じ、1960年6月の日本では、日米軍事同盟としての「安保条約」の締結が、日本を、米国の対社会主義圏に対する軍事的包囲の為の後方基地、即ち朝鮮半島の38度線と、東南アジアのベトナム民族独立戦争への介入と言う二つの反共包囲網の橋頭保としての米軍基地の固定化を目的として進められていた。

 

日本は朴軍事体制に対し、日韓条約(1965年)によって有償・無償8億ドルを戦後賠償見合いとして支払い、日本帝国主義三十五年にわたる植民地支配による、朝鮮半島全域の民衆と国家への責任を南部政権との単独賠償で処理しようとしたのである。日本はこれによって朴軍事ファシズム政権の経済的後ろ楯となり、更に朴は、米国のベトナム戦争の最前線(米兵による掃討作戦の先頭には、常に韓国軍がいた)に延べ30万の兵士を送り込み(ハンギョレ21・第273号)10億ドル以上の特需を手に入れた。現在までの検証でさえ、3千余件の韓国軍によるベトナム民衆虐殺事件が明らかになっている(同上)。朴時代に於ける韓国経済の“漢江(カンガン)の奇跡”と言われるものがこの二つの経済効果によるところが大きいことは、否定しがたい。

 

朴政権は、1972年10月非常戒厳令を布告し、11月維新憲法によって終身大統領を狙った。中でも『緊急措置発布の権限』は、その「維新体制」の中心をなした。国民と労働者を超法規的軍事裁判にかけ、そのあらゆる権利を大統領命令によって何時でも否定できるものとした。70年選挙で自らを脅かした金大中を殺害目的で日本から拉致すると言うテロ行為を日本の公安の黙認の下で行ったのもこのころである。74年1月『緊急措置1号』は、維新憲法改正(改憲)運動の禁止を命令し、運動に参加した者を逮捕拘禁し、4月『緊急措置4号』による民青学連事件関係者の軍事裁判は、54名の人々が死刑を含む重刑となり、75年4月には、「人民革命党事件」のでっちあげ裁判により8名が処刑された。61年の反共法、70年国家保衛法、75年社会安全法等、他のあらゆる法の上に聳える法が作られた。(それは、保守派、ハンナラ党などの廃棄反対により、今も『国家保安法』として残っている。)労働者の自主的組合は認められず40万名とも言われる中央情報部要員と戦前日本の隣組をまねた「トン。パン」が、国民を監視し、拘禁された学生や民衆は、拷問にかけられ殺された。兵役義務のある良心囚は、容赦なくベトナムの前線に送られた。

 

1979年〜80年、韓国経済を襲ったスタグフレーシヨンと第二次オイルショック、そして低賃金と悪労働条件のなかで諸権利を奪われた労働者の『生存権』を賭けたたたかいが、炭鉱、繊維を始めとして全国で拡大した。民主勢力も『民主主義と民族統一の為の国民連合』〔民統連〕を結成し、学生もまた全国各地で「改憲」を要求して街頭に繰り出した。ブサン、マサン、チャンウオンで反政府示威暴動が発生した。10月26日中央情報部長官・金載圭(キム・ジエギュ)が、宴席で朴を暗殺したのは、このような民衆の反政府運動への対処を巡る意見の対立によるものである。  

 

朴の死後、維新憲法に対する改憲闘争が全国に拡大する中で、盧泰愚と全斗換を中心とする新軍部は、戒厳令を出し80年5・17クーデターを実行した。

全斗換は、〈言論基本法〉で言論メヂアを国家の統制下におき、労働諸法を更に改悪して労働運動を規制し、大統領を間接選挙として自ら就任した。(続く)