ホームページ タイトル

 

 




2 全斗換(第五共和制)から、87年6月民主化抗争まで

 
制度的民主主義と労働三権が否定された、抑圧・資本主義国家・韓国

 

 

朴正煕(パクチョンヒ)暗殺は、「維新憲法体制」に対する民主化要求運動への容赦のない弾圧が、体制崩壊を招くとの危機感を持った側近の犯行であったが、79年12・12、粛軍クーデターを経て軍隊を掌握し、80年5・17国軍クーデターにより新たに権力をもった全・全斗換新軍部は、全国に戒厳令を布告した。彼らは、「維新体制」の踏襲に留まらず、朴死後、一時高揚した民主化運動と労働運動に対し、前政権以上の弾圧を持って答えた。 79年朴政権崩壊後の労働争議は、80年1月から4ケ月で、848件《前年対比8倍》と爆発的に増加した。軍事政権下で否定された労働三権《団結権・団体交渉権・団体行動権》を要求し翼賛組合指導部の裏切りを乗り越える韓国労働者の、生存権と労働基本権を勝ち取る戦いである。江原道・舎北(サプク)炭鉱労働者とそれを支持する市民の〔暴動〕はその代表的な戦いであった。韓国では、戦後米軍政下から李、朴、全など軍事政権を通じて、労働運動は、治安機関による「治安対策の対象」に他ならなかった。  憲法の名目上の労働基本権は「法の定める所により」蹂躙され「国家安全法」と「安企部」(国家安全企画部。朴政権下では韓国中央情報部)によって取り締まられ刑罰と過重な罰金や、ときには、共産主義と北韓に結び付けられ、スパイと国家転覆罪としてデッチ上げられたうえ、投獄と拷問が労働者を待ち構えていた。時として軍事政権下の韓国の労働争議が〔暴動〕と言う形態になったのは、労働法が在って無きが如くの、国家の暴力的な統制と支配と言う、抑圧的労働者支配に原因するのだ。(韓国の労働運動と労働法規の実態と、参与政府と称する、87年6月民主抗争の中から生まれたはずのノムヒョン政権が、労働者の労働基本権を否定する過去の軍事政権の遺産をまだ引き摺っているのはなぜか。批判的検証は、後述する。)

 805月、生存権と労働基本権を要求する労働運動と、民主化を求める光州民衆の戦いは、876月抗争の礎である。

この労働者の戦いも、学生を中心とする民主化闘争も〔戒厳令〕下の軍部による恐怖支配によって収束に向かった。多数の労働運動家や学生活動家が拘引され(6万人)、軍隊の「三清教育隊」に一般犯罪人と共に懲罰的に投げ込まれ「浄化」された。 しかし 同じ時期、韓国南部、全羅南道光州の市民と学生の民主化闘争は、80年5月16日のチョン・ドフアンの戒厳軍空挺部隊による攻撃によって、歴史上類を見ない国家権力による無差別虐殺の現場となった。光州は、李承晩から朴軍事政権を通して、韓国民主化運動の持続的な中心であった。市民と学生は、自衛の為に軍の武器庫から奪った銃で戒厳軍と戦った。市民の死亡・行方不明は574名、負傷者4800名は、この軍事政権の残忍極まりない性格を示しているだけではない。 一般的にも資本主義社会体制を維持する為に、民衆の人権を蹂躙した強権的軍事国家の行き着く先を暗示している。

この虐殺の真相と、光州の市民学生たちの戦いは、87年6月抗争の頃まで韓国民衆が知る事はなかった。光州虐殺事件(80年5月18日―27日)後設置された軍部執行機関、「国家保衛非常対策委員会」(国保委)は、この事実を隠蔽し主要メディアを統制したからである。さらに「国保委」は、「労働運動への弾圧を欲しいままにした。”浄化“の名の下に、産別委員長12名、労組幹部191名が追放され、地域支部106が解散させられ1980年末労組員は948、134名で前年度より15万人減少した」 (韓国労働法の形成と展開,朴洪圭・立命館法学267号)。言論界は「統廃合」され、朝鮮日報・東亜日報・韓国日報など主要新聞と、KBSMBSなど放送メディアも軍事政権の従順な、お雇いメディアとして機能させ、光州虐殺を封印した。金大中は、国家反逆罪で死刑を宣告された。その後「国保委」は、81年3月、議会的手続きを欠いた「第五共和国」(五共)をデッチあげ、任期6年間の全斗換を大統領とする究極の軍事フアシズム国家を登場させたのである。(當研究会による「ハンギョレ21」2007・6・8号の、訳文【6月抗争の理想は実現されたか?】は、この様な「5共」下の韓国民主化闘争に当時、関わった現在の大統領候補者達の過去を中心とした、いささか、文学的なドキュメントであるが、歴史の流れを興味深く味わう手助けには成るであろう。)


876月民主化抗争は、労働者階級の労働基本権を素通りした、不十分な勝利だった。

 言論界の国家統制、自由な政党活動の禁止,民主主義的制度や議会的手続きを欠いた大統領選挙、「国家保安法」と「安企部」による超法規的民衆支配制度によって、人間の思想を国家が裁き、不当な拘引と拷問を日常化させ、教育の極端な国家支配と言った,基本的人権と民主主義的諸権利の剥奪と言う制度的民主主義の否定を含む広範な抑圧体制が、朴軍事政権を、より強化するものとして継承された。日本政府(中曽根内閣)は40億ドルの円借款でこれを支えた。
しかし全斗換軍事政権6年の後半、87年1月ソウル大生パク・チョンチョル拷問致死への抗議行動を契機とする、6月にいたる継続的な全国的民主化闘争(6月抗争)は、  世界市場での韓国経済の進出が国民の基本的人権を否定する軍事独裁体制の下で行はれている事への国際的批判や、韓国学生の民主化闘争が激しい反米運動と一体となって発展している事へ危機感を覚えたアメリカ政府と議会の軍事政権批判、そして88年ソウルオリンピックを迎えて国内の民主化運動の沈静化への圧力のなかで、軍事政権に「6・29民主化宣言」をさせるまでに追い込んだ。
大統領直接選挙制改憲、維新体制からの不当拘束者の釈放、言論の自由の保障、大学の自律化、が約束された。10月「新憲法」、11月「言論基本法」が制定され、「憲法裁判所」の設置により人権抑圧諸法が審査の対象となった。
それは、「ハンギョレ21」で記述されているように、軍事独裁政権によって支えられた資本主義体制の枠内での,民主化を求める歴史的且つ壮大な市民革命の勝利であった。しかし、学生と知識人、ホワイトカラーを中心とする市民の全国的戦闘的街頭行動は この制度的民主主義の獲得による市民的自由の享受への期待によって、急速に後退していった。
しかし、40数年間にわたって、軍事ファシズムに支えられた韓国資本主義の生産関係の中で国家と資本家により、あらゆる労働基本権を奪われ、ストライキと言う団体行動権さえも「業務妨害」とみなされ刑事罰によって取り締まられると言う隷従的支配に置かれて来た韓国労働者階級が、自己の権利の為に立ち上がった7月には、すでに学生市民の姿は、街頭にはなかった。韓国の社会と経済をその生産点で支え、資本家と日常的に対侍する労働者階級の奪われたあらゆる基本権は、市民革命の「勝利」の後でも、何も変わらなかったのだ。877月―9月の「労働者抗争」の間に全国で3250件の争議が労働三権と生存権を要求して戦われたが、韓国現代史は多くの場合、この軍事国家によって否定されてきた制度的民主主義に対する民衆の戦いや勝利については語るが、軍事政権という「資本主義体制の抑圧的支配」の、実態的な支配関係である資本と労働者階級の、労働基本権と生存権をめぐる戦いについて触れることは少ない。軍事国家が憲法と労働諸法に於いて、資本に対する労働者の、対等の権利を否定し、国家が資本の立場を擁護して労使関係への警察による暴力的介入を合法化する為に、国家権力は制度的民主主義を否定して来たのである。学生や知識階級、ホワイトカラーなど中間層の戦いが、一部の制度的民主主義の達成で満足し、労働者階級の戦いに共鳴する事など、軍事政権による資本の為の労働者支配が、文民政府による資本の為の労働者支配に取って代わることになっても、自らの問題として受け止めることはなかった。
今日、韓国の労働基本権の現状はどうなのか。韓国の労働者運動が、何故たえず警察権力の介入に直面するのかを次週明らかにしたい。またそこには、韓国に進出する日本企業の存在や国家資本との関係の中で、労働者の権利が制限されいく事実が明らかになるだろう。それは、日本の労働者の問題でもあるのだ。(続く)