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(韓国・ハンギョレ21 2008813日 723)
http://h21.hani.co.kr/section-021019000/2008/08/021019000200808130723005.html


      ネパール共産党(毛沢東主義派)は毛沢東主義を忘れたのか



                                     カトマンズ(ネパール)=文・写真、ユ・ジェホン



武装闘争を展開した彼等の民主主義の実験・・・プラチャンダ路線、8年目に第一党に浮上して

静かなヒマラヤの王国、ネパールが、歴史的激動の時代に直面している。239年続いてきた王国は崩壊し共和国となった。ネパールの最後の王、キャネンドラは、制憲議会設置された直後、平民となりナラヤニティ王宮から追出された。
去る4月、制憲議会選挙で予想を飛び越え、第一党に浮上した‘ネパール共産党―毛沢東主義派’(以下、マオイスト)は、政局を主導しているが過半数の議席を越えられない限界に直面している。たとえ、象徴的役割に留まる大統領であるが、720日、制憲議会の間接選挙でマオイストが支持したパラン・ヤタプが敗北するが、政府構成の日程も波乱を経験していて、土地改革などの制度改革も険難な事を予告している。
米国を除いては説明出来ないことなどそうなのだが、一時、山道を塞いで登山客らに通行料を取ったマオ主義共産叛軍として戯画化されたマオイストの執権は、武装闘争を繰り広げた共産党が選挙を通して執権したと言う点で、21世紀の共産主義の歴史に線を画していることは変わりない。20世紀が過ぎ去る前に没落した後、 犬も咬まないように思われた共産主義の新しい変化と言う点で、彼等の未来は成否を離れてこの上なく大きい関心を集めている。(△‘ 問題は民主主義だ’ネパール首都カトマンズの貧民街に構えたネパール共産党−マオイスト事務所で党員と、党職者らが話を交わしている
去る5月末、制憲議会召集を目前に置いたカトマンズの壁と通りには、鎌と鎚(農民と労働者の団結を表したマオイストの赤旗―訳注)が翻っていた。タメルのラインチョル路に隣接したゲストハウスに荷物を解くや否や、市内の見回りに出かけた。ナラヤンヒティ宮殿の鉄門の向こう側の王室近衛兵らが、英国バッキンガムの近衛兵のように格式を備えて交代をしていたが、気の抜けた気分がありありと見えた。
内部が見えない様に、空に突きあがった壁の面が終わりもなく長く立ち並んだ、正面の米国大使館が、王宮と奇妙な調和を作り上げていた。キャネンドゥラ()の没落には結果的に米国も一役買って出た。
20016月、王の世子(嫡子)であるディペンドゥラが、酒と薬を飲んで、一方の手にはM16,他方の手には小銃を持ってランボー式に親兄弟を殺戮した、稀代の王宮の残酷劇は、少なくともネパールでは信じる人はない。誰かが計略をかまえ、親中国路線を模索したピレンドゥラ王を除去した事件だということが、幅広い支持を受ける定説である上、その‘誰か’を挙論されるのが米中央情報局(CIA)だ。無論、陰謀論だ。しかし、皆殺し劇の渦中にチテュワンの別荘で惨劇を避けることが出来て、唯一、王位継承者となったキャネンドゥラが王位に就いた以後起こったことを、米国と無関係に説明すると言うことは不可能に近い。キャネンドゥラが王位に登ったその時、米大使館には‘国防協力事務所’が新設された。非常事態を宣言したふた月後には、コリン・パウエル米国務部長官がカトマンズを訪問した。その直後提供された2千万$の軍事援助と軍事顧問団の派遣を始めとして、王立保安軍の大々的な兵力増強と武器投入が続いた。35千名だった保安兵力が2005年には10万名に増えていた。マオイスト人民解放軍に対する討伐作戦に警察ではない軍が動員され始まったのもキャネンドラが王になって米軍の軍事支援が本格化されながらだった。
一方1994年登場して、1996年ネパール西部山岳地帯を根拠地として人民戦争を宣言し武装闘争を繰り広げ始めたマオイストは、自他とも認める毛沢東主義共産党だ。マオ主義教科書に従えば、農民戦争と言う農村を根拠に機動戦と遊撃線を広げ、時を待つ‘持久戦’の概念だ。持久戦として人民戦争は、軍事的意味に政治的意味を結合すると完成させることが出来る。軍事的に得られた解放軍は、政治的に完成しなければならない。解放軍の人民は、自らを組織せねばならず、彼等を通して人民戦争は人民の権力を創出する。疑うところなく1996年以来、マオイストは着実にその道を追って来て、目覚しい成果を収めてきた。(△民主主義革命のカトマンズ、ラトナ公園で開かれたネパール共産党―マオイストの政治集会に参加した市民達が真摯な表情で演説を聞いている)
2003年マオイストは、人民戦争の終わりの段階である‘戦略的攻勢期’への移行を宣言した。解放軍を中心に人民政府を構成した。2005年に臨んで、ネパール全国土の80%は彼等の手中に落ちたと言うのが、一般的評価だった。同じ年2月、キャネンドゥラの議会解散と非常事態宣言で引き起こされた王政のクーデターは、マオイストの躍進に対する危機意識の所産であったが、結局、自滅の油を注いだざまとなった。カトマンズの政党、政治勢力は無論、王政を支援した中産層までキャネンドゥラに背を向けたし、王政の本山であるカトマンズでキャネンドゥラに対する抵抗の気運が急速に成熟していた。マオ主義の人民戦争の教科書は、こんな状況を攻勢期の終わりとして取り扱い、カトマンズに進攻したり、もしくは、未だ時ではないので機会をまって解放軍を広げ、敵の努力をさらに止める機会として見なすと教えた。
無論、2005年王政のクーデター以後を、戦略的攻勢期の終わりとして呼ぶことが出来るのかどうかに対しては、通快な結論を下すのは難しい。国土の80%を掌握したうえ、カトマンズを封鎖するようにしたが、キャネンドゥラの指揮下には米国が支援した最新の軍事物資で武装した10万の保安兵力が対抗していた。カトマンズを攻撃したときは、米国とインドの軍事的介入を招くことも出来た。

‘戦略的攻勢期’に一方的休戦宣言

しかし、どんな場合にも戦争は止めないのがマオ主義者達の常識だが、20059月、マオイストは不意に一方的(!!)休戦を宣言して、11月にはカトマンズの政党連合である7政党連合(SPA)と、共和国樹立、制憲議会選挙実施などを盛った12項の覚書に署名した。無論、戦術的態度の変化と見ることもできた。しかし、これらを契機として、ネパール共産党―毛沢東主義派は自分達だけの休戦を遵守しながら、力量をカトマンズでの反王政民衆蜂起に集中し始めた。マオ主義人民戦争の教科書に登場しない都市蜂起戦術への転換だった。
以後に広がったことは、さらに奇妙だ。20064月の民衆蜂起の勝利以後である1121日平和協定に、マオイストは銃を下ろして制憲議会選挙を選択した。かってマオイストは、‘権力は銃口から生まれる’と教えた。選挙から飛び出ると教示したことはない。平和協定でマオイストは、臨時政府の閣僚席を4つ、議会議席73を得たが‘ネパール議会党’と‘ネパール共産党―マルクスレーニン連合’(以下、マルクスレーニン連合)の後に続く第3党の待遇を受けたに過ぎない。更に人民戦争は確実な放棄状態だった。協定に従って武器は倉庫に行って封印された。兵力は指定された7つの兵営に分散収容された。制憲議会選挙も勝つだろうと言う保証はなかった。国際社会は、制憲議会が実施されると言うがマオイストが勝利する可能性を占わなかった。選挙のプロであるネパールの会党とマルクスレーニン連合は、確信した。紆余曲折の末に行われた20084月の選挙で、マオイストは第一党の席を占めることはしたが、その勝利は保障された勝利ではなかった。

社会主義の段階でも生き残る‘多党制’

マオイストの代表人で通信部長官であるクリシュナマハラに会った場所で、尋ねた。“選挙で勝利すると思いますか?
”飾り気のない回答が帰ってきた。“そうですよ”付け足しを、自分達は人民を信じる政党だといった。
そこで、また尋ねた。“負けたらどうしますか?”彼は笑いながら言った。“更に一生懸命やらなければならないでしょう。”

“人民戦争は放棄したと言うことですか?”−“王政でなければ戦争はしないです。”
“王政は、戦争で崩壊されたのでも、ないのではないですか?“民衆蜂起で崩壊されたのです。”
”選挙で革命が可能だと信じますか?”−“民主主義で可能だと考えます。”
クリシュナが言った民主主義は、‘21世紀民主主義の発展’として定式化されたマオイストの所謂‘プラチャンタ路線(Prachandapath)’の、まさにその‘民主主義’だ。20012次党大会で議長に選出されたプシュパカマルタハルの別名を借りたプラチャンダ路線は、人民戦争の5年を決算する場所で採択された新しい路線だった。事実、プラチャンタ路線は、2001年以降今まで、マオイストの支柱となってきたし、さきに書いたマオイストの‘奇妙な行跡’を説明することが出来る唯一の根拠だと言う点で重要だ。(△ 民主主義革命 マオイスト反対集会が開かれたカトマンズの通りに共産党議長のプラチャンダの写真が破られたまま床に落とされている
“プラチャンタ路線は、ロシアと中国そして他の地域での経験を反映したものだ。・・・我々は、マルクス、レーニン、毛沢東等を放棄しないが、それらをドグマでとして受け入れない。我々は、人民が自ら管理することで、富裕な者たちが選挙を思うままにすることが出来ない21世紀の民主主義を指向する。”
21世紀民主主義は、マオイストの社会主義的民主主義として提出されたものだが、多党制の民主主義を受け入れた。更に多党制民主主義は、市民主義の段階だけでなく社会主義・共産主義の段階でも放棄されることはない。プラチャンタ路線に従えば、20世紀共産主義が没落するほかなかった理由は、真実の民主主義の道義を実現できなかった為だ。プラチャンタ自身はこのように語った。
“社会主義的民主主義はどうして失敗したのか?どうして全体主義と言う汚名を受けなければならなかったのか?21世紀の革命的共産主義者達が、マルクスとエンゲルスが‘共産党宣言’で宣言したように‘民主主義の為の戦闘で勝利’しようとすれば、われわれは必ず、社会主義的民主主義の過ぎ去った誤謬が投げてくれた、この質問の答えを求めなければならないし大胆に(新たに)始めなければならない。

権力より大事なものの為の 新しい実験

その対案である多党競争は、人民大衆の介入と監視、日常的な統制を保証するうえに、独占的・官僚的傾向と言う共産党の固有な属性を抑圧して、社会主義的民主主義を制度化することが出来る方案として提示されたものだ。
結局、‘問題は民主主義’だと語っているわけであるが、2001年採択以後、マオイストがこの路線に従って粘り強く歩んできたことは、疑心する余地がない。
付け加えれば、この多党競争は‘透明で平等な’競争として認識される。ブルジョア議会民主主義の‘富裕な者たちが思うままにする選挙’も、この原則で食い違うが‘プロレタリア独裁’と言う美名の下に強圧的に保障された共産党の独占的権利もまた排斥された。
ネパールでは、そのように銃を下ろして選挙を通じ、議会に進出したマオ主義者達の新しい革命が進行中だ。世界は今、権力は銃口ではない他のところから出ると信じる、権力より重要なものは民主主義だと信じる、‘奇妙な’マオ主義共産主義者達の新しい実験を見守っている。(△ 民主主義の革命、マオイスト代弁人クリシユナマハラ
                                              (訳 柴野貞夫)