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(韓国民衆言論 ハンギョレ 国際ニュース 2009年6月28日)

http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/362769.html

 

 

日本赤軍派指導者“世の中を変えようとする考えは、そのままだ。”

 

 


△重信房子(63)

 

“現実を変革する運動は、楽しく創造性があった。”

 

 

1960年代~70年代の、日本学生運動の勢力‘全共闘’の‘マドンナ’として知られ、社会変革運動に身を投じた後、拠点を中東地域に移動し各種テロを主導した日本赤軍派の最高指導者、重信房子(63・写真)

 

 

その人が、最近<サンケイ新聞>と獄中インタビューをして、全共闘時代に対して思い出がこもった回想をした。

彼女は、1965年明治大学に入学した後、学生運動に飛び込んで、69年結成された武装闘争路線の赤軍派となった。“日本だけでは革命を起こす事はできない。”と言う信念で、重信はレバノンに出国し赤軍派の国外別途組織である‘日本赤軍派’を創設し、72年イスラエル・テルアビブ空港銃器乱射事件と飛行機拉致事件など各種テロを強行した。2000年11月、日本国内に潜入したが逮捕され、日本高等裁判所で懲役20年の刑を宣告され東京拘置所に収監中であった彼女は、2001年日本赤軍の解散を宣言した。

 

 

重信はインタビュウで、過去の過激だった運動方式に対し自責の念をほのめかしたりしたと、<サンケイ新聞>は伝えた。“運動が上手く行かなかった時、武装闘争に走り出した。世界が学生運動に沸き立ったが、故郷に帰って運動を継続した人もある。その時、我々も故郷に帰って運動を継続していたら、違った結果になっていたかも知れない。”

 

 

彼女はまた、“運動から脱け出た人達を恨む考えは無い。彼らを受け入れる基盤を作る事が出来なかった。”と語った。最近、癌手術まで経験し、監禁された身であるが“世上を変えると言う考えに変化はない。”と言う。“戦場で、何度か死ぬ所だった命だ。銃弾に当たるのは構わないと考えた時は当たらなくて、反対の時もあった。人にそれぞれ決まった命があると考える。”

 

 

東京・キムドヒョン特派員

 

 

(訳 柴野貞夫)