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(韓国・週刊誌・ハンギョレ21 2009/11・06 第784号)

http://h21.hani.co.kr/arti/world/world_general/26062.html

 

 

 

“アフガンに残るどんな理由もわからない”

 

 

 

 

米国務部所属・地域再建チーム責任者、メシュー・ホ氏、ありのまま語る

 

“腐敗した政府と一緒になって、泥沼にはまり込んだベトナム戦の悪夢が浮かび上がって”

 

 

チョン・インファン記者


 

“大きな残念と失望を抱いて、国務部外交政務官室(アフガニスタン)ジャプール地域民間代表の職から辞任しようと思います。振り返って見れば、過ぎた10年の歳月の内、6年余を異国の土地で米合衆国の為に仕事をして来ました。2004年から2005年まで、また2006年から2007年まで2度、米海兵隊将校と国防部民間要員としてイラクで勤務する事もしました。・・・過ぎた5か月余をアフガンで過ごしながら、私は米国がアフガンに残っていなければならない戦略的目的に対する理解も信頼も失ってしまいました。米国の現アフガン戦略と未来の戦略を、理解する事も,信頼する事も出来ません。しかし私が辞任する理由は、戦略の為ではありません。米国がなぜ、そして何の為にアフガンにいるのかに対する懐疑だからです。




△写真―“国連も火が燃えている”10月27日午前、タリバンと見られる怪しい男の攻撃を受けた、アフガニスタン首府、カブール市内の中心街に場所を構える国連ゲストハウスで、黒い煙が立ち昇っている。この日の攻勢で国連職員3名を含め、8名が死んだ。(AP/ヨンハップ)

 

 

米国務部所属で、アフガン南部チャブール州地域再建チーム(PRT)責任者として働いたメシュー・ホ(36)が、去る9月上官に送った4ページの分量の辞職書は、この様に始められた。国務部の人事でアフガン戦争に反対し辞任したのは、ホーが初めてだ。彼は10月27日<ワシントンポスト>と行ったインタビューで、“私は、‘平和狂’でもなく、大麻草でも吸いまくって‘世の人々がすべて愛しながら、暮らしたら良い’と考えるヒッピーではさらに無い。”とし、“ただ、アフガン戦争は、戦う価値がないと考えるだけだ。”と語った。新聞が伝えるそれが、アフガンを離れる事に決心した理由を覗いて見よう。

 

 

海兵隊将校出身として、アフガン南部で勤務

 

 

マサチューセッツ州トプツ大学を卒業したホーは、暫く出版社で働いたが、1998年海兵隊に入隊した。5年余の軍生活の間、駐日米軍で服務する事もした彼は、国防部の民間要員として服を着替え、イラクに向かった。サダムフセインの故郷であるバクダッド北部ティクリスで、再建事業を指揮する任務が与えられた。2005年帰国したが、次の年、予備軍動員令が下されるが、ホーは、軍服を着てまたイラクに飛び立った。配置されたところはバクダッド西部アンバル州、パルージャに象徴される抵抗勢力の拠点だった。

 

ここで送った1年、ホーは数多い死を目撃した。2007年春、帰国した彼が激甚な外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しむのもこの為だ。彼は、<ワシントンポスト>と行ったインタビューで、“2006年12月ヘリ機墜落事故で死んだ同僚の姿が浮かび上がり、卒倒するまで酒を飲むことになった”と語った。その年末、平常心を探した彼に、昔の同僚たちは“国務部が再建・開発専門家を引き抜く”と、耳打ちした。自分の経験を活用出来ると言う考えに志願し、軍と民間を合わせた豊富な現場の経験を高く買った国務部も、あっさり彼を雇用した。今年はじめ、彼はアフガニスタンへ向かった。

 

 

首都カブール勤務を経て去る7月赴任した南部ジャブールは、‘抵抗の土地’だった。南西側にはタリバンの発祥地だと言うカンダハルが、南側にはパキスタン国境が接しているその場所で、彼は、“手に触れる本であれば求めて読んだ。”と言った。1980年代ソ連の屈辱と1990年代タリバン冶下の人生、そして2001年10月の侵攻以来8年間持続されたアフガン占領の現実を、次々と気付き始めた。8月、執り行われたアフガン大統領選挙で、あらゆる不正が制覇することを目撃した事は、彼の‘決心’を早める事となった。彼は辞表で“多くのアフガンの人々は、ただ、米軍が自分の国にいる為に争っている”とし、“米国は今、永い内戦を持続するアフガンで、巻き添えにされた兵士たちの死を強要している。”と書いた。



△写真 ‘10月は残忍な月、最悪の月’バラク・オバマ大統領が、10月29日アフガン参戦戦死者の遺骸が送還されているデラウエズトボー空軍基地で運柩行列が過ぎるや、故人に挙手敬礼で禮を表している。10月の半月間、アフガンで戦死した米軍将兵は、2001年10月以来、最も多い55名を記録した。(REUTERS/JIM YOUNG)

 

 

侵攻8年目に、米軍犠牲者‘史上最悪’

 

 

ホーが、辞表で公開した指摘は、そっくりそのまま現実となった。2009年10月、アフガン駐屯米軍は侵攻8年目に、最も多い死亡者を出した。10月最後の週は特に流血で染められた。月曜日の26日には、北西部パクヂス州で抵抗勢力と交戦を繰り広げた中、現場を抜け出た米軍ヘリが墜落し兵士7名と麻薬探促軍(DEA)要員3名が一度に命を失った。同じ日、南部地域でも戦闘支援に出かけたヘリコプター2台が衝突して4名が戦死した。

 

10月27日には、南部カンダハルで2件の待ち伏せ攻撃が相次いで起こり、巡察勤務に出た米軍8名が命を失った。二つの事例はすべて、道路埋設私製爆弾(IEDs)攻撃に繋がった銃撃戦、幽霊の様に出没するタリバンの‘公式’に依って行われた。

<ロイター通信>はこの日、“カンダハルで8名が息絶えるが10月の戦死者数は55名に増加した。”とし、“これで、アフガン大統領選挙を前後に、タリバンの攻勢が集中され51名が戦死した去る8月の記録を破って、10月が開戦以来最悪の月に記録される事となった。”と伝えた。‘10月の戦死者’の中には、10代も混じっている。米陸軍第4工兵隊所属で去る10月15日、カンダハルで巡察勤務の途中、抵抗勢力の攻撃で命を失ったプレンドゥン・スタイオ一等兵は、たった今19歳を越した所だった。

 

“アフガン駐屯外国軍とアフガン保安軍、また警察兵力を合わせれば、タリバン兵力の12倍を超える。そうであるが‘勝利’は遠く遥かだ。”

 

<AP通信>は、10月27日、こと新しく、指摘した。“アフガン駐屯米軍と北大西洋条約機構(NATO)軍指揮部は追加兵力投入を持続的に要請しているが、兵力増派だけでは問題を解決できない。”と言うものだ。現在、アフガンに駐屯する外国軍は、米軍6万8千余名を包含し、全てで10万4千名に達した。ここに、アフガン保安軍9万4千余名に等しい規模の警察兵力が支えている。30万の大軍だ。タリバンはどうなのか?NATOと米軍指揮部は、タリバンの戦力がどの程度かに対しては口を閉ざしているが、通信は、NATO司令部の高位当局者の言葉を引用して、“内部的にはタリバン兵力2万名に民兵隊など補助人力数千名の水準と見て、作戦計画を組んでいる。”と伝えた。米軍側もタリバンの戦力を‘2万5千名の線’と把握していると言う。

 

振り返って見る事だ、ベトナム戦が最高潮に達した1968年、現地に派遣された米軍は120万名、所謂、‘ベトコン’と呼ばれたベトナム民族解放戦線の兵力の4倍の水準だった。単純比率で計算して、ベトナムより3倍も多い兵力がアフガンに投入されているのだ。

そうであるが、状況は‘最悪’だ。ホーが辞表で‘ベトナムの悪夢’を思い浮かべたのもこんな脈略でだ。

彼は、腐敗と無能、側近政治と、戦犯であると同時に麻薬密売を業とする軍閥に取り囲まれたまま、選挙不正まで犯したハミード・カルザイ大統領の政府を、一つ一つ批判した後、この様に書いている。

 

“こんな政府を支援しながらも、米国は抵抗勢力の実態さえ把握する事が出来ていない。ベトナム戦の悪夢を思い浮かべる他はない。米国内部の安定を害してまで、国民の信望を失った腐敗した政府を支持したし、驕慢で粗暴にも、我々式(米国式)の冷戦イデオロギーに捕らわれて、民族主義に基盤をおいた抵抗勢力と対立した・・・。”

 

 

30万対2万5千であるが、展望は不透明

 

 

1979年12月27日、アフガンを侵攻したソ連は、1989年2月15日、撤兵を始める時まで9年2ヶ月を悪戦苦闘した。米軍がアフガンを侵攻したのは、2001年10月7日だ。占領の記録は8年を通り越した。インターネット媒体<サロン>は、10月27日この様に指摘した。

“一つの国を侵略し占領した。そうしては、侵略と占領に対して争う彼らを、‘叛軍’または‘テロリスト’と烙印を押した。今、‘叛軍’と‘テロリスト’を掃討する為、その国に継続して駐屯しながら戦わなければならないと主張する。ひどい循環論法だ。彼らが戦う唯一の理由が、即ち我々(米国)がそこにいる為であるからだのに・・・。”

 



(訳 柴野貞夫 2009年11月12日)

 

関連記事 当サイト参照

 

 

☆ 107 対テロ戦争7年、アフガンに何を残したか? (韓国・チャムセサン 2008年9月17日付け)

 

 

☆ 187 オバマのアフガン、ジョンソンのベトナムとなるのか? (韓国・ハンギョレ21 2009年9月11日 第777号)