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(韓国・ハンギョレ新聞 615日付)


    日本国会議員らがワシントンポストに全面広告/「慰安婦強制はなかった」

                                                    イ・キチャン記者 


○「慰安婦の待遇は良日本軍の将軍よりもよい。性奴隷ではなく売春婦だ」と、恥ずべき歴史歪曲。河野談話を全面否定。

 

日帝従軍慰安婦問題に対する日本政府の謝罪を促す決議案が米下院に留まっている中で、日本議員40余名は、14日、ワシントンポスト紙の全面広告を通して、「慰安婦動員に日本政府や軍隊の強制(強圧)は無かった」と主張した。

日本自民党と民主党並びに無所属議員45名は、教授、政治評論家、言論人などと共同で出した、"事実(THE FACTS)“と言う題目の広告に、「当時、日本政府や軍が慰安婦動員に介入したと言う文書を、見つける事は出来ない」と、「日本軍が若い女性を性奴隷として追い立てた」と言うマイクホンダ議員の慰安婦決議案の内容は、「歴史的事実と違う」と、反駁した。

「日本政府と軍は当時むしろ、女性らを拉致し慰安婦にするのは駄目だと命令したし、女性らを慰安婦として引っ張っていったブローカーらが警察に摘発され、処罰を受けたと言う韓国の報道まである。」と広告は指摘した。「そうであるにもかかわらず、日本軍人らが規律に従わず女性らを捕まえ売春行為を強要した場合があったと言うインドネシアで、ネーデルランド(オランダ)女性らが慰安婦として引っ張られたことは、その代表的な事例として関係者達は後で全て重罪を受けた」と言うこと。日帝慰安婦らは「普通、性奴隷として描写されているが事実は許可を受け売春行為をし、これ等大多数の収入は、日本人将校や、はなはだしくは将軍よりも多かった。」と、広告は強調した。

また、「これと同じ売春行為は、当時全世界に普遍的な事だったのであり米軍も1945年の日本占領以後、米軍らの強姦を防ぐ為に、衛生的で安全な“慰安所”設置を日本政府に要請した。」と、付け加えた。

「従って去る四月末、ワシントンポストに載せられた“慰安婦に対する真実”と言う広告は断じて事実ではない」と、広告は主張した。末尾に、「悲しくも、第二次大戦中多くの女性らが激甚なる苦難を受けた事は至極遺憾であるが、同時に日本軍が若い女性らを性奴隷として追い立てる“20世紀最大の人身売買事件中の一つを犯した”と言う下院決議案は、重大で故意的な事実歪曲である。」と、強調した。また「実際に広がった事に対する批判は謙虚に受けねばならないが、根拠なき中傷と名誉毀損に対する謝罪は大衆らに歴史的事実への間違った印象を与えるだけでなく米日親善関係にも悪影響を及ぼす。」と警告した。

日本の議員と教授たちのこんな広告は、米下院に留まっている慰安婦決議案通過を阻止する為の多角的な努力の一環と解釈される。

しかし日本議員らのこんな広告内容は、米国内の歴史教科書を含む各種慰安婦関連記述と反対となるだけでなく、太平洋戦争当時従軍慰安婦動員の過程で、日本軍と官吏らが関与した事を認めて謝罪した,1993年河野談話を継承したと言う日本政府の公式の立場とも異なるものであって論議が予想される。

日本政府は1993年当時、河野洋一官房長官の名前で太平洋戦争当時従軍慰安婦を動員する過程で、日本国と日本の官吏らが関与したことを認めて謝罪をあらわした。

18ヶ月に亘った日本政府次元の調査を土台に、19938月発表された河野談話は、長時間広範囲に亘って慰安所が設置され、数多い慰安婦が存在したことを是認し、慰安所は当時軍当局の要請によって作られたものだと明らかにされた。

また、慰安所の設置管理更に慰安婦の移送は、日本人の直、間接的関与の下に作られて、軍の要請を受けた業者が、甘言、強制によって本人の意思とは関係なく慰安婦を募集した事例が多くて、官吏らが直接の募集に加担した場合もあったと是認した。

河野談話は、慰安婦らが強圧的な状況で残酷な生活を強いられ、当時軍の関与の下、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題に対し、被害者らに心から謝罪して反省すると明らかにした。

日本議員たちのワシントンポスト紙の広告は、この様な河野談話の内容に全面的に反する事でありこれを継承すると言う日本政府の立場にも反するものとして、米国民らに日本政府の立場と異なる主張を、「歴史的事実だ」と広く知らせる論議が展望だ。

慰安婦決議案を主導したホンダ議員のダニエル・コンス代弁人は、“彼らの広告の主張は、数十年間に亘って繰り返されて来た正確でない嘘で、既に間違ったものとして明らかだし説得力を失ったものとして論評する価値さえない。”と、一蹴した。

ダニエル・コンス代弁人は、“特に下院外交委小委員会主催で開かれた慰安婦ハルモニ(おばあさん)らの聴聞会証言は、大変訴える力があるもので、第二次大戦中の彼らが体験した侮辱と強姦、虐待にたいしては、これ以上、話す必要も無い。”と、反駁した。

ワシントン挺身隊問題対策委員会のソ・オクジャ委員長は、“日本政府と軍が関与したと言う歴史的証拠と証言などはあまりにも十分だ。“慰安婦ハルモニらの恨みを抱いた証言は、明確に一貫性がある。創作することが出来ぬ真実にもかかわらず枝葉的な問題を取り上げ信頼性を云々することはとんでもないことだ。”と、強調した。                                          (訳 柴野貞夫)


(解説

安倍と日本会議に集まる右翼議員集団は、日本国民とその意識を、有事はもちろんのこと平時でも、国家権力に動員するには如何にすべきかを、常に政策の基本に置いてきた。つまりアジアに対する日本の植民地侵略戦争の歴史を正当化する事が、国民を国家への忠誠と動員に、取り込むイデオロギーになると考えてきたためである。安倍が再三、従軍慰安婦強制動員を否定し公式謝罪を拒んできた理由はここにある。戦後日本の歴史教育を[自虐史観]とこき下ろし、国家のために死ぬ事を「美しい国」の理念と考える安倍の「教育改革」の基本もここにある。

今世紀最大の国家による拉致事件といわれる、日本軍による従軍慰安婦(性奴隷)に対する、日本政府の正式謝罪を求める米下院決議を前にして、614日、米国ワシントンポストに掲載された、日本の国会議員と評論家ら45名連名の、日本軍による従軍慰安婦強制連行に関する意見広告は、616日付朝鮮日報が指摘するように、哀れむべきほど無知な「日本の知識人の道徳水準を晒したもの」(社説)だった。既に日本の良心的な学者や草の根活動家が、確保した多くの資料は、国家が隠匿する膨大な資料がなくとも、彼らが提示した「慰安婦に対する国家関与の強制連行を示す証拠はない。」という主張が、全て嘘であることを十二分に証明している。 意見広告文中、[ブローカーが警察に摘発され処罰を受けたと言う韓国の報道まである]と言う事実なるものは、616日付朝鮮日報の報道によれば、「19398月、日本警察が、女性らを満州に誘拐した悪徳ブローカーを、処罰した、記事を指しているが、これは私娼窟に連れ込まれた女性の事であって、“従軍慰安所”とは何の関係も無い!」と、その根拠が嘘であることも明らかにした。更に、最大の被害国、朝鮮や中国については何も触れず、オランダ女性の慰安所連行は認めるものの、「規律を守らなかった軍人は、重罪を受けた。」と主張するが、それが、連合国やオランダによる軍事裁判によるものである事を隠し、あたかも日本政府と軍による処罰かのように記述しているのだ。そして、彼ら国会議員と大学教授、評論家と称するやからの、腐敗した品性と堕落した知性を象徴するくだりがある。 慰安婦らは、「将校や時には将軍よりも良い収入のあった売春婦だ。」と、その収入を殊更強調することで、彼女たちの人間としての尊厳を踏みにじる行為を正当化しようとしていることだ。

日本の右翼議員らと評論家どもは、韓国の新聞が指摘するように[無知を曝け出している]だけなのだろうか? 中にはその様な馬鹿も多く居るが、その中心を為す連中は、明らかに歴史を意図的に改竄しているのである。つまり、「一部を認めて他のより基本的な事柄を否定する」と言う手法である。この[慰安婦問題]において、安倍が繰りかえし言った、「狭義の強制はあったが広義の強制は無かった」などがそれである。国民の国家権力への動員や忠誠が何をもたらしたか?の一つの結末が、この慰安婦問題の中に象徴されている。最後に、われわれは、文頭、彼らが「日本政府や軍が慰安婦動員に介入したと言う文書は見つからなかった。」故に、強制動員は[歴史的事実と違う]、と言う尾上太郎、桜井よしこ、松村仁(民主)、河村たかし(民主)、島村宣伸、平沼赳夫などの自民、民主国会議員など45名の[道徳水準を晒した連中]に、歴史の資料を提供するものである。朝鮮半島のオモニたちが持ち込み、日系ホンダ議員の尽力によって実現されようとしている日本政府への「公式謝罪要求」は、彼ら、安倍を援護する右翼国家主義者達の意見広告にも拘らず、26日、恐らく米下院で多数の支持を得るはずである。その結果、世界は安倍と言う男の正体を少しばかり知ることになるだろう。

ついでに、324日付のワシントンポストの社説を紹介する。「北朝鮮に拉致された日本人被害者に対して、これだけ情熱的に糾弾の声をあげながら、自身が犯した戦争犯罪に対しては口を閉ざしているのは何故か。この様な一点主義的な外交政策は、日ごとに低下している支持率を挽回したいと言う自らの底意に根ざしている。第二次大戦中、十数万の女性を拉致した上、性奴隷とした国家犯罪を否定する安倍の態度は不愉快きわまりない。

日本の公式謝罪を安倍は二度も否定している。北朝鮮が日本人を拉致し翻訳者もしくは、言葉を教える教師として利用した事は事実であろうが、それにも増して日本が朝鮮の女性を拉致し、彼女らを性奴隷として酷使したと言うことは歴史的にも記録されている明白な史実だ。この拉致に日本軍が関与した事も明白だ。下院に出頭した三人の証人も自分たちが受けた被害を証言した。

安倍は過去日本が犯した拉致について、これは事実無根であると言い張るならば、いま北朝鮮を糾弾して止まない自らの道徳的立場が強化されると信じているようだが、結果は逆である。」(訳 鄭敬謨 朝鮮新報より転載)

 

<参考記事>

極東国際軍事裁判に各国が提出した日本軍の「慰安婦」強制動員示す資料>

 既報のように、日本軍による「従軍慰安婦」の強制動員を示す資料が確認された。関東学院大学の林博史教授が4月17日、日本外国人記者協会で会見を行い公表した資料は、極東国際軍事裁判(東京裁判)にオランダ、中国、フランスの検察団が提出、受理された公文書で、現在、東京大学社会科研究所図書館に所蔵されている。以下、資料の内容を紹介する(文面は公表された資料そのまま。各資料冒頭のPDは検察側証拠書類番号、EXは法廷証拠番号。7点のうち資料1、3、5の一部は97年に報道を通じて紹介されている)。


【資料1】(PD5330/EX1702)

インドネシア・ボルネオ島(カリマンタン)ポンティアナック

日本海軍占領期間中蘭領東印度西部ボルネオに於ける強制売淫行為に関する報告
一九四六年七月五日

 一九四三年の前半にポンチアナック海軍守備隊司令海軍少佐ウエスギ・ケイメイ(同人は一九四三年八月頃日本に帰国したり抑留を要求し置けり)は日本人はインドネシヤ或は中国の婦人と親密なる関係を結ぶべからずといふ命令を発しました。当時全ての欧州婦人と事実上全ての印度系欧羅巴婦人は抑留されて居ました。彼は同時に公式の慰安所(official brot-hel)を設立するやう命令を出しました。是等の性慰安所(brothel)は二種に分類することになって居ました。即ち三ヶ所は海軍職員専用、五、六ヶ所は一般人用で其の中の一ヶ所は海軍民政部の高等官用に当てられました。

 海軍職員用の性慰安所は守備隊が経営しました。司令の下に通信士官海軍大尉スガサワ・アキノリが主任として置かれ日常の事務は当直兵曹長ワタナベ・ショウジが執って居ました。日本人と以前から関係のあった婦人達は鉄条網の張り廻らされた是等の性慰安所に強制収容されました。彼女等は特別な許可を得た場合に限り街に出ることができたのでした。慰安婦をやめる許可は守備隊司令から貰はねばなりませんでした。海軍特別警察(特警隊)が其等の性慰安所に慰安婦を絶えず補充するやうに命令を受けていました。此の目的の為に特警隊員は街で婦人を捕へ強制的に医者の診察を受けさせた後彼等を性慰安所に入れました。是等の逮捕は主としてミヤジマ・ジュンキチ、コジマ・ゴイチ、クセ・カズヲ、イトウ・ヤスタロウ各兵曹長によって行はれました。

 一般用の性慰安所は南洋興発株式会社支配人ナワタ・ヒサカズが経営しました。守備隊司令は民政部に命じて之を監理させました。民政部は此の経営を報国会(日本人実業家の協会)に依嘱してナワタが報国会の厚生部の主任であったので是等一般人用の性慰安所の主任に任ぜられました。彼は帳簿をつけたりするやうな事務的仕事には彼の会社の使用人を使用しました。毎朝、夜間の収入は南洋興発会社の出納係キタダ・カゲタカに引渡されました。是等の慰安所に対する婦人達も亦特警隊の盡力によって集められました。

 其等の性慰安所に充てられた家屋は敵産管理人から手に入れ家具は海軍用性慰安所にあっては海軍が支給し一般人用にあっては報国会が支給しました。遊客は原住民である傭人に(海軍の場合には其の階級に従って)金を支払はねばなりませんでした。又その傭人は其の金を毎日当直兵曹長又は南洋興発の出納係に引渡しました。両者の場合共三分の一は諸経費、家具、食物等を支弁する為保留され、三分の二が当該婦人の受取勘定に繰り入れられました。此の中から婦人達は随時彼等各自の用に充てる為其の一部を引出すことが出来ました。毎月の計算書は民政部の第一課に提出せねばなりませんでした。

 特警隊は婦女を捜すに当り民政部及日本人商社の全婦人職員に特警隊に出頭するやうに命じその婦人達の何人かを真裸にし日本人と関係していたとなじりました。次いで医師が検診をしましたが数人は処女であったことが判りました。是等の不幸な婦人達の中何人が性慰安所に強制的に送られたか確実には判りません。婦人達は性慰安所から敢て逃げ出さうとは致しませんでした。と言ふのは彼女等の家族が特警隊に依って直ちに逮捕されて非道く虐められるからでした。一例として此の様な事の為当の少女の母親が死んだ事があります。

 幸にも占領期間中引続き診療に従事することを許された、在ケタパンのインドネシヤ人軍医ルフリマ博士は特警職員の命令で彼の行った是等婦人の検診に関し宣誓供述をする事が出来ました。

 彼の証言に依ると婦人達は強制的に売淫させられたのであります。上記の報告は日本人戦犯者の訊問から得た報告と本件関係者の宣誓陳述とから輯録されたものであります。

 私は上記の事実は真実に上述の報告書に相違する点のない事を情報将校及日本語通訳として誓って断言致します。

バタビヤ 一九四六年七月五日
ジェー・エヌ・ヘイヂブロエク
J.N.Heijbroek陸軍大尉
蘭印軍情報部

(訳注)「蘭印軍情報部の公式記録より採られたもの」と記された、蘭印軍情報部戦争犯罪課長チャールズ・ヨンゲテル陸軍大尉の署名付「証明書」も付けられている。「慰安婦」と訳されている箇所は英文では(women)のみ。


【資料2】(PD5326/EX1701A
インドネシア・ボルネオ島(カリマンタン)ポンティアナック  
ポンテヤナック虐殺事件に関する一九四六年三月一三日付林秀一署名付訊問調書

調書

 本日、一九四六年三月一三日容疑者林秀一は在ポンチヤナック臨時軍法会議予審委員たる予、即ちメーステル・イエ・ベ・カンの面前に出頭した。

問 君の氏名、年齢、住所及職業を私に言ひなさい。

答 林秀一、二十四歳、日本石川県生れ、海軍軍属。

 一九四三年七月十三日私はポンチヤナックに到着して警備隊長上杉ケイメイ大尉のところに出頭しました。ポンチヤナックでは私は私が設置したハナ機関の地方部長となりました。このハナ機関は海軍の情報機関でありました。(略)

 [証人ラフィアの訊問調書が容疑者に提示され、これについて訊問がなされた]

答 この婦人がポテム及アミナと共に上杉より訊問を受けたことは本当であります。その場合私は馬来語通訳として立会ひました。上記婦人は日本人と親密にしたと云ふので告訴されたのです。日本人と親密にすることは上杉の命によって許されていなかったのであります。私は上記の婦人を平手で打ったことを認めます。又彼等の衣服を脱がせたことも認めます。之は上杉の命令で行ったのであります。かくて三人の少女は一時間裸で立たなければなりませんでした。

問 これは日本で婦人を訊問する時の慣習か。
答 それは私は知りません。
問 君は部下の巡査ではない。併しポンチヤナックで独自に仕事をして居るスパイである。故に上杉のかくの如き命令に従ふ必要はない。
答 私はこの婦人たちが脱衣して裸にならなければならなかったことを承認しました。私は此の婦人たちは実際は罰すべきでなかったと信じます。併し彼等を抑留したのは彼等を淫売屋(brothel)に入れることが出来る為の口実を設けるために上杉の命令でなされたのであります。脱衣させたのは彼等が日本人と親密になったことを彼等に認めさせることを強ひるためでありました。結局その婦人たちは淫売屋へは移されませんで、上杉の命令で放免されました。何故だか私は知りません。
問 幾日間その婦人たちは特警隊の建物の中にいたか。
答 私の思ふのには五日乃至六日間でした。彼等は建物の後の監房の一つにいました。

 (以下、略。現地住民や中国人、ヨーロッパ人らの大量逮捕、虐殺の話になる。)

(訳注)上杉大尉やハナ機関などには漢字が当てられているが、「音訳」と但し書きがついているものはカタカナ表記に直した。


【資料3】(PD5591/EX1794)
インドネシア・モア島
オハラ・セイダイ陸軍中尉の宣誓陳述書  
一九四六年一月一三日

問 貴方の氏名、年齢は?
答 シメイはオハラ・セイダイ、年齢は二十七才。
問 貴方の所属部隊は?
答 タナカ部隊ハヤシ隊
(略)
問 一九四四年九月に於けるモア島の指揮官は誰でしたか。
答 私でありました。
問 一九四四年九月中にモア島で土民が殺されたことがありますか、又その人数は?
答 セルマタ島及ロエアン島で約四十名の土民が捕虜となり且殺されました。
問 何故殺されたのですか。
答 土民達がセルマタ及ロエアン島の憲兵隊を攻撃したからです。
問 誰がその殺すことを命令したのですか。
答 タナカ将軍は土民達を司令部へ送るやう命じました。然し土民達がモアを出発する前に右命令は変更され私がモアで彼等を殺し土民の指導者三、四名をタナカ部隊に送るやうにと命ぜられました。
問 貴方は自分でその土民達を殺しましたか。
答 いえ、私は唯その殺すのを監督したのです。
問 誰が貴方の手助をしたのですか。
答 ウド曹長、トヨシゲ軍曹、マツザキ軍曹及二十一名の他の兵卒達です。
(略)
問 どんな風にして土民達は殺されたのですか。
答 彼等は三人宛途上縦隊を作って整列させられました。それから前に述べた二十一人の兵達は銃剣で彼等を突刺し一度に三人を殺しました。
問 或る証人は貴方が婦女達を強姦しその婦人達は兵営へ連れて行かれ日本人達の用に供せられたと言ひましたがそれは本当ですか。
答 私は兵隊達の為に娼家(brothel)を一軒設け私自身も之を利用しました。
問 婦女達はその娼家に行くことを快諾しましたか。
答 或者は快諾し或る者は快諾しませんでした。
問 幾人女がそこに居りましたか。
答 六人です。
問 その女達の中幾人が娼家に入る様に強ひられましたか。
答 五人です。
問 どうしてそれ等の婦女達は娼家に入る様強ひられたのですか。
答 彼等は憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。
問 ではその婦女達は父親達のした事の罰として娼家に入る様強ひられたのですね。
答 左様です。
問 如何程の期間その女達は娼家に入れられていましたか。
答 八ヶ月間です。
問 何人位この娼家を利用しましたか。
答 二十五人です。
(以下略)

(訳注)オハラの階級について、陸軍中尉が、海軍大尉と後から直されているが、経歴を見ると陸軍なので、陸軍中尉のままにした。


【資料4】(PD5770/EX1725)
インドネシア・ジャワ島マゲラン
イエ・ベールマンの尋問調書
一九四六年五月一六日

 私は一般被抑留者としてムテラン(Moentilan)収容所に抑留されました。一九四四年一月二十八日、私は吾が婦人部指導者レイツスマ夫人から日本軍俘虜収容事務所へ出頭する様にと云はれました。此処で私は爪哇人の一警視を見ました。彼は私を他の六人の婦人や少女等と一緒に連れて収容所の外側にあった警察署へ連れて行った。連行された人々の名前は(略)。

 私達が爪哇人警視に案内されて収容所へ帰へって鞄に所持品を充めた後に其警視は私等を日本軍俘虜収容所事務所へ連れて行きました。此処で私等は三人の日本人に引渡されて三台の私有自動車でマゲラン(Magelang)へ輸送され午後四時に到着しました。我々はテウグラン(Teogoeran)と称せられ十四の家屋から成っていた小さい収容所へ連れて行かれました。一九四四年一月二十五日、私達の収容所から連行された婦人や少女等の一団と此処で会ひました。

(略)

 一九四四年二月三日、私達は再び日本人医師に依って健康診断を受けました。此間は少女達も含んで居ました。其処で私達は日本人向き娼楼(brothel)に向けられるものであると聞かされました。其日の晩に娼楼が開かれる筈でした。帰宅後ブレッカー夫人と私は凡ゆる戸や窓を閉めました。午後9時頃戸や窓を叩く音がありました。私達は戸も窓も開け、閉さしてはならぬと命ぜられました。寝室だけは戸を錠で閉して私は其処へ閉ぢ籠りましたが他は其通りにしました。私は是を二月五日 日曜日まで継続しました。其日にも亦日本軍兵卒等が収容所へ入って来ました(以前は日本軍将校のみでした)。是等兵士の幾らかが這入って其の中の一人は私を引張って私の室へ連れて行きました。私は一憲兵将校が入って来るまで反抗しました。其憲兵は私達は日本人を接待しなければならない。何故かと云へば若し吾々が進んで応じないならば、居所が判っている吾々の夫が責任を問はれると私に語りました。この様に語った後、憲兵は其兵士と私とだけ残して立去りました。其時ですらも私は尚ほ抵抗しました。然し事実上私はやられてしまいました。彼は衣服を私の身体から裂き取りました。そして私の両腕を後に捻りました。そこで私は無力となり、その後で彼は私に性交を迫りました。私は此の兵卒は誰であったか又其憲兵将校の姓名を知りません。

 此の状態が三週間継続しました。労働日には娼楼は日本将校のために日曜日午後は日本下士官達のために開かれ日曜日の午前は兵卒等のために保留されました。娼家へは時々一般日本人が来ました。私は常に拒絶しましたが無効でありました。

 一九四四年二月の終り頃か三月の始頃に私は事務所へ出頭する様に命じされました。其処にはタキグチと言ふ日本の一将校が居ました。彼は私が受けた待遇に関して私の訴を根拠として事件を調査すると約束しました。彼は亦私達を抑留者収容所へ送還するために極力努力することを約束しました。彼は兵卒や下士官や一般日本人に対して娼家を閉館して私達のために直に情況を改善して呉れました。

(訳注)証言者は、証言時、27歳。


【資料5】(PD5806/EX1792A

ポルトガル領チモール(東チモール)
ルイス・アントニオ・ヌメス・ロドリゲスの宣誓陳述書  
一九四六年六月二六日

 一九四二年二月二一日、私は、日本軍がディリの中国人やその他の家々に押し入り掠奪をおこなうのを見ました。

 日本軍があちこちで族長らに対して、日本軍慰安所(brothel)に現地の少女たちを提供するように強制したことを私は知っています。その際に、もし少女らを提供しなければ、日本軍は族長らの家に押しかけて、慰安所に入れるために近親の女性たちを連れ去るぞ、と言って脅迫しました。

 (訳注)この宣誓陳述書の中で、日本軍が族長に命じて、労働力を提供させたことなども述べられており、族長に強制して提供させる手法がとらえていたことがわかる。なおこの宣誓陳述書には、連合軍東南アジア司令部の戦争犯罪捜査将校とポルトガル領チモールの行政官のサインが付されており、ポルトガル当局が捜査に協力していることがわかる。


【資料6】(PD2772E-/EX2120)
ベトナム・ランソン
ニェン・ティトンの口述書抜粋

 四日間自由であった後、私は街で日本人に逮捕され印度支那保安隊の病院の後方にある憲兵隊に引致されました。(中略)私は八日間、日本憲兵隊に監禁された後放免されました。其後私は数回逮捕され乱暴に殴られました。日本人等は私の仏人との交際を咎めたのでありました。

(略)

 ランソンに於ける捜査の間、日本人等はフランス兵と一緒に生活していた私の同国人数名に彼等/日本人等/が光安(Tienyen)に設けた慰安所(broth-el)へ一緒に行くやう強制しました。私は巧い計略の結果、彼等から免れることが出来ました。

 (訳注)証言者は一九一五年生まれ、住所はハノイ。


【資料7】(PD2220/EX353)
中国桂林
軍事委員会行政院戦犯罪証拠調査小隊「桂林市民控訴 其の一」
一九四六年五月二七日

 敵軍の我が桂林を侵略せしは一年間にして其の間姦淫、捕虜、略奪等為ささる処無く長縄大尉なる日本福岡県人は敵復興支部長の職を担当し、人と為り陰険悪毒にして桂林市に有る偽新聞社並びに文化機関をして自己の支配下に置き其等を我が民衆の懐柔並びに奴隷化の中心機関とし且又偽組織人員を利用し工場の設立を宣伝し四方より女工を招致し、麗澤門外に連れ行き強迫して妓女として獣の如き軍隊の淫楽に供した。長縄の秘書即ち鈴木華□(日本女性)は彼の行為を幇助し、更に甚しきは此の敵が楽群路に在った李子園に憲兵隊を設立し、(以下略)