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韓国・社会主義政治組織、タハムケ機関紙「レフト2126号(2012年2月25日付)
http://www.left21.com/article/7708

 

      核エネルギーは高価で、反環境的で、危険な軍事的兵器


                                                         チャン・ホジョン


原子力発電所を増やしても、地球温暖化を止めることはできない。理由は、原子力発電に懸かる費用は極めて大きい反面、温室ガス減縮効果は大変小さい為だ。原子力発電は最も非効率的で高価なエネルギーなのだ。
主要投資者もこの事実を裏付けている。信用評価機関であるステンドゥエンドゥプオスは、「政府補助金をいくら注入しても、信用危機が高まる。貸出保証を提供する連邦法案でも、これを克服することはできない」と、結論した。モーガンスタンレーの事務総長であるケラン・バートは、我々は、その危険を甘受することが出来ないのであり、投資会社はその事態を永く記憶する」と書いている。(ヘレン・カルディ『、原子力はいけない』2007年)
韓国で原子力発電所を運営する<韓国水力原子力>は、「現在建設中である8基の原発のほかにさらに10基の発電所を建設する」と言う。当然ながら資金を調達する方法がなく、過去7カ月(訳注−この文書は2010225日に書かれ)だけで、239百億ウオンの債権を発行した。この費用は、特別会計や電気料に転嫁される方式などを通して、そっくりそのまま国民の負担となる公算が大きい。
何よりも、どこの政府もその費用をきちんと計算した事がないのだ。原発閉鎖費用(寿命がくれば,何時かはそうしなければならない)と、廃棄物処理費用を考えれば、全くすごい費用が懸かるのだ。
原発の発電単価が相対的に低く算出されているのは、この費用を全て排除している為だ。或る研究者は、過去数10年間に支援した政府財政をすべて含めて発電単価を計算したら、甚だしくは現在稼働中である風力発電所で作られる電気より遙かに高くなる、という結果を得た。
その上、自然で豊かな風や日光とはことなり、ウラニウムは極めて珍しい鉱物だ。原発が増加するほど、原料費用は急速に高くなるだろう。
一方、原発は温室効果ガス(二酸化炭素)を排出しないと言うが、これは事実ではない。化石燃料を利用した発電所より排出量が少ないのは事実であるが、原子力産業はウラニウム採取、輸送、濃縮、再処理など、工場のあちこちで温室ガスを排出している。
一例として、世界のウラニウム濃縮の大部分を受け持っている米国ケンタッキー州のパドカーには、もっぱらウラニウム濃縮の為にだけ稼動している火力発電所が二つある。それぞれ1,000メガワットだ。これは、かなりの原発の発電量に匹敵する。
<韓国水力原子力>側がよく引用する資料にも、「原子力の全過程で排出する二酸化炭素は60グラム程度で、海洋風力の21グラムより随分多い」(イ・ジンフ[市民社会新聞]20071022日付)とある。また、核エネルギーに対する投資は、再生エネルギーに必要な投資をできなくする」(イ・ホンソ、エネルギー正義行動代表)という。
原発拡大で気候変化を止めることができないばかりでなく、市場論理に照らしてみても原発は決して効率的なエネルギーではない。
この点で、<ハンギョレ21793号と796号に載せられた2編の論文が「イ・ミョンパク政府の原発輸出で生ずる経済的利得に期待が大きく膨らんでいる」と、指摘している事は正しい。しかし、原発を代替エネルギーとする事が出来ない理由は、経済性の為だけではない。
 
核エネルギーは核兵器として誕生した。今も、各国が核を取り捲いて繰り広げているあらゆる活動は、核兵器保有の動機と切り離されていない。
さらに、各国政府がいつも経済的動機だけで選択すると仮定するのも、現実とは異なる。最近オバマ政府も、ジョージア州ポークカウンディに建設される原発2基に83億ドルの貸出保証を支援すると明らかにしている。([プレシアン]217日付)
したがって、イ・ミョンパク政府の原発輸出を単純に収支打算だけで評価するのは、原発拡大計画の真の動機とそれが生む危険性を看過するものだ。原発輸出契約が成立した直後に、[ハンギョレ]社説の論調は輸出自体に反対しないものに変わったのも、この観点と関係がある様だ。(『レフト』21・22号に掲載の「UAE核発電所建設受注は良いことではないを参照)
世界の火薬庫と呼ばれる中東に核を入れる事は、ものすごい危険を生む。仮に、原発建設で韓国の建設業が収益を上げたとしても、これは原発輸入国家に生きる平凡な人々の生命を担保としたものだ。
韓国の反核運動は、収益性論理に閉じ込められるのではなく、核自体の危険性を強調し、イ・ミョンパク政府の原発拡大政策に反対していかなければならない。

                                    (訳 柴野貞夫 2011318日)