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(韓国ネット新聞・PRESSIAN世界ニュース 2011年12月29日付 )
http://www.pressian.com/article/article.asp?article_num=40111228233702&section=05




北韓‘革命第二世代’の代表…国家システムの完成者


故キム・ジョンイル(金正日)国防委員長の生涯




チョン・チャンヒョン<民族21>代表。国民大・兼任教授



ピョンヤン(平壌) クムスサン(錦繍山)記念宮殿で、12月28日開かれた故キム・ジョンイル国防委員長の永訣(告別)式を最後に、北韓の歴史からキム・ジョンイル時代が公式的に終焉を告げた。29日キム・イルソン(金日成)広場で開かれる中央追慕大会は、キム・ジョンイル委員長を最後に追慕する場であるとともに、新しい‘領導者’キム・ジョンウン(金正恩)党中央軍事委副委員長に対する忠誠を誓う場となるものと予想される。


1974年、32才の若さでキム・イルソン主席の後継者として登場したキム・ジョンイル委員長は、1980年代以降、事実上北韓を統治する最高指導者として活動して来た。彼の一生に対する歴史的評価は、時間をもっと必要とするかも知れない。彼を眺める、北と南の視角の差は極めて大きく、南側でも相反する評価が存在する為だ。キム・ジョンイル時代の北韓が、核開発など先軍路線と南北首脳会談などの柔和路線を同時に駆使した為に、なお一層そうだ。


しかし北韓では、1989年の冷戦終息以後、社会主義圏の崩壊、1994年キム・イルソン主席の逝去、1995年の大洪水、3年間の‘苦難の行軍’などの試練の中で、キム・ジョンイル委員長が‘ウリ式(我々=朝鮮式)社会主義’の固守を標榜し、先軍路線を通して体制危機を克服し、強盛大国建設構想による経済再建を推進した点を高く評価している。


北韓が、“人工地球衛星の制作、また発射国としての誇りに、核保有国の尊厳!”、“知識経済時代の民族の未来を繰り上げてくださった新世紀の産業革命!”、“血の涙でいっぱいに満ちた悲しみの大河を、強盛国家への大進軍隊伍として激変させた民族の精神力!”などを、キム・ジョンイル委員長の‘三大革命遺産’だと評価したのも同じ脈絡だ。


実際に、1994年のキム・イルソン逝去直後には、キム・ジョンイル体制が長く持たないだろうと言う、外部世界の展望が多かった。短かければ三日、長持ちすれば、三年を超える事も難しいと言う分析もあった。しかし、こんな予測は全て外れた。キム・ジョンイル委員長は、軍隊を前に押し立て、安保(安全保障)と経済を同時に担当する様にして、体制危機から抜け出た。従って、社会主義を固守し様とする北韓の立場で、特に、キム・委員長と歩みを同じくして来た‘革命第二世代’達の立場から見れば、キム委員長に対する評価が、南側とは違わざるを得ない。


北韓の歴史で、キム委員長を客観的に位置付ける為には、キム委員長個人に焦点を合わせる視覚の他に、北韓の‘第二世代’を代表する人物として(の)キム委員長を眺める視覚が必要だ。彼の成長と権力の掌握は、‘パルチザン第一世代’の格別な関心と‘革命第二世代’達の支えの中に成し遂げられた為だ。

彼が歩んできた道を、幾つかの時期に分けて調べてみれば、この様な点が一層明らかになる。





▲歴史の中の人物となったキム・ジョンイル委員長 写真・ヨンハップニュース



◇幼年時代


キム・ジョンイル委員長は、1942年2月16日、キム・イルソン(金日成)主席とキム・ジョンスク(金正淑)の間で生まれ、‘東北抗日連軍の教導旅(団)’があったハバロフスクで幼年期を過した。南側学会では、キム委員長がロシア・ウラジオストック近隣のウオロシーロフで生まれたと主張するが、北韓はペクトサン(白頭山)の野営地で生まれたと宣伝している。キム・ジョンイルは、東北抗日連軍の隊員達が沿海州に移動した後生まれた、最初の‘パルチザンの息子’だった。当然のことに、パルチザン隊員の間で関心の対象となった。北韓が、幼いキム・ジョンイル委員長を手厚く世話をしたと言う、リ・ウルソル(李乙雪)元帥は今も健在だ。キム・ジョンイル委員長の永訣式の日、発刊された<労働新聞>の寄稿文を通して、リ・ウルソルは、キム・ジョンウン副委員長を支え、社会主義強盛国家完成に(向かって)あらゆる力を全て尽すと明らかにする事までした。


キム委員長は、1945年11月末、女性抗日遊撃隊隊員達と一緒に、チョンジン(清津)に入国し、12月にピョンヤン(平壌)に入り、父親キム・イルソン主席と再会した。1946年ナムサン(南山)幼稚園に入学し、母親と革命第一世代の格別な配慮を受け成長した。



◇学窓(学生)時代


キム委員長は、1948年9月ナムサン人民学校に入学した。その年、彼は事故で弟を亡くし、1949年には生母であるキム・ジョンスクが子供を産んだ後死亡する悲しみを経験した。キム・ジョンスクは、幼いキム・ジョンイル委員長を、ピョンヤン・ポトン江改修工事の現場を始めとして、工場と協同農場を連れて通った。逝去直前には、抗日パルチザンの同僚達に“キム・ジョンイルを、立派な指導者に育てて頂きたい”と言う遺言を残したと言う。キム・ジョンイル委員長も2002年、ロシアの高位人士に、“私の人生に最も影響を与えた人は、母親”と明らかにした。


キム委員長は、韓国戦争(朝鮮戦争)の時、中国・キルリム(吉林)に行き、1952年、マンギョンデ(万景台)革命遺子女学院(現、万景台革命学院)に暫く留まり、戦後にはサムソク人民学校5学年に入学したが、1964年2月ピョンヤン第四人民学校に転学し卒業した。


1954年9月ピョンヤン第一中学校に入学し、1956年、朝鮮民主青年同盟に加入しながら、本格的に‘政治学習’を受け始めた。1959年最上級生の時は、キム・イルソン、当時首相に同行し、モスクワを訪問する事もした。



◇大学生時代


北の革命第二世代達が、海外留学をしたのと違って、キム・ジョンイル委員長は、キム・イルソン総合大学経済学部・政治経済学科に入学した。彼は大学時代、キム・イルソン主席の著作を中心に万ページづつ読む、‘万ページ読書運動’を発起するなど、多様な学内政治活動を展開した。


1961年、破格的に労働党に入党した彼は、第一世代の支援を受け本格的な政治(への)歩みに出て、キム・イルソン首相の地方現地指導にも同行し始めた。この時彼は、学問的に一般知識に関した専門的高等教育を受けただけでなく、自分の父親の思想・理論を体系的に習得したと伝えられる。





▲若い時代のキム・ジョンイル 写真・ロイター=ニュシス



◇後継者の浮上


1964年、大学を卒業した彼は、労働党中央の核心部署である組織指導部に入った。まず、国家機構を管掌する中央指導課に勤務しながら、党中央委員会内部の事業全般を把握した。1967年、‘パク・クンチョル、イ・ヒョスン事件’を処理しながら頭角を現し始めたし、以後、党宣伝扇動部の課長に席を移し、思想・文化芸術分野を担当し<血の海><花を売る乙女>など、`五大名歌劇‘と芸術映画を完成し、第一世代の信任を得た。特に主体思想の体系化と唯一思想体系の確立に、主導的に参加した事で、彼は1970年副部長に昇進し、党の思想事業全般を掌握する実権者として、力を振り絞る契機を準備した。1973年9月、党組織・宣伝秘書(書記)に任命され、事実上後継者に決定されて、1974年2月、党政治委員会に任命され労働党内で後継者として確定された。



◇唯一指導体制の確立


後継者となった彼は、1973年9月から1974年中盤までは労働党に、1974年後半から1975年中盤までは軍隊の中に、1975年後半から1976年中盤までは、政権部門と対外・対内部門に唯一指導体制を樹立した。唯一指導体制と言う一言で、後継者の指導だけに従う指導体系、報告体系、事業体系を構築することを意味する。その上、彼は‘3大革命小組(グループ)運動’を展開し、世代交代を推進した。


党・政・軍に対する改編が完結された後、召集された1980年の第6次党大会は、後継者の為の大会だった。1970年代に唯一指導体制を完結させた彼は、第6次党大会を通して後継体系を公式化し、初めて公式的に大衆に姿を現わした。





▲1981年父親キム・イルソン主席とのピョンヤン散策


写真 ヨンハップニュース



◇事実上の最高指導者


大衆の席上に、姿を表わしたキム・ジョンイル委員長は、ピョンヤン市再建設事業を主導する一方、1983年6月には中国を非公開訪問し、経済特区を巡視する事もした。

1990年代に入って、彼は人民軍最高司令官、国防委員長などの職責を受け継ぎ、所謂‘領導の継承体系’を構築して行き始めた。キム・イルソン主席は、後継者キム・ジョンイルが提出した案件と議題を追認し、そこに重み(威厳)を乗せてやる事を受け持った。



◇強盛大国の建設を標榜


1994年キム・イルソン主席の逝去後、三年喪を終わった彼は、1997年労働党総書記に就任した。次の年、権限が強化された国防委員長職に再推戴された。1998年、国家目標として‘強盛大国の建設’を標榜した彼は、2000年、北・中首脳会談、南北首脳会談を通して、全方位外交路線に出て、2002年には、‘社会主義経済管理改善措置’を発表し、‘経済改革’を推進し始めた。2007年には、2012年を‘強盛大国の大門を開く年’にしようと言う、5箇年経済計画を発表した。その年10月、第2次南北首脳会談を持った。



◇後継者決定と急逝


2008年、急に健康が悪化したキム・ジョンイル委員長は、息子であるキム・ジョンウンを後継者に指名し、2010年9月、党代表者会議を招集し、キム・ジョンウン後継者を党中央軍事委員会副委員長に任命し後継体制を公式化した。キム・ジョンウン後継者決定と公式化過程では、チョン・ビョンホ書記、チャン・ソンテク、キム・ギョンヒ部長、キム・ヨンチュン次帥(じすい→朝鮮民主主義人民共和国人民軍で、大将の上に位する―訳注)など、革命第二世代の支持が決定的役割をしたと伝えられる。


キム委員長は、2009年から、キム・イルソン主席の遺訓貫徹を強調しながら、以後3回の北―中首脳会談と1回の北―露首脳会談を通して、アムロクガン(鴨緑江)河口のラソン(羅先)経済特区、トマンガン(豆満江)河口のファングンピョン特区構想を具体化し、推進した。頻繁な中国とロシア訪問、地方現地指導などは、彼の健康に無理を与え、結局2011年12月心筋梗塞で急逝することで、北韓はキム・ジョンウンの領導体制でのり越えていく事となった。




▲写真 ニューシス


要約すれば、キム委員長は(革命)第一世代達の強力な支持を基礎に、後継者として登場した後、第二世代達の支えを受け、第一世代達が成し遂げた成果を、思想・理論的に体系化し、党・政・軍などの運営指針書(マニュアル)を準備することで、現在の北韓の国家システムを完成した。そして、2000年代に入ってからは、‘新思考’を掲げ、変化した世界情勢に対応し、‘北韓式改革開放’路線を推進して来たが、その最終結果を見る事は出来なかった。


キム・ジョンイル委員長からキム・ジョンウン後継者への転換は、北韓で新しい世代の登場を意味する。


40年前の1972年、キム・イルソン主席は還暦を迎え、革命第一世代の老幹部達と一緒に故郷の家を訪問し、写真を撮ったが、この場所にはキム・ジョンイル、当時宣伝扇動部副部長を始めとして、チョン・ビョンホ、キム・ギナム、キム・クンテ、チェ・テボクなど多数の革命第二世代達も同行した。


この場所でキム主席は、“我々が初めて開拓し、40年間おこなって来た革命事業を、引き継いで行く交代者達”だとし、“我が革命の交代者達は、どんな激しい暴風が吹いて来ようと動揺せず、我々の革命の偉業を最後まで完成して行かなければならない”と語った。そして1年6カ月後、キム・ジョンイル委員長が後継者として決定された。


この場所に参席した30~40代の若い幹部達は、今70~80代の元老として席を占めている。北韓の歴史でキム・ジョンイル委員長の行跡、彼が残した功罪は、北韓第二世代の功罪でもあるのだ。


彼等は、第三世代最高指導者にキム・ジョンウン副委員長を選択し、2010年9月28日党代表者会議を通して、事実上‘キム・ジョンウン体制’を出帆させた。結局、キム・ジョンイル委員長と彼の世代に対する北韓人民の最終評価は、キム・ジョンウン体制がどんな成果を出すのかに掛っていると言える。


キム・ジョンイル委員長は、生涯最後の時期に、強盛国家建設の主攻路線として‘人民生活の向上’と‘世界化’を強調した。彼は2010年、竣工式を持ったキム・イルソン(金日成)総合大学の電子図書館に、“自分の土地に足をつけて、目は世界を見よ”と言う‘親筆の命題’を送った。主体的考えを持って他の国の優秀なものを受け入れよと言う意味だ。北韓が経済の回生の為の外資誘致に拍車を加えている中で出た‘キム・ジョンイル式世界化’に対する強調だった。


キム・ジョンウン副委員長は、キム委員長が残した遺訓を継承するものと見える。彼と彼を支えている3~4世代の選択が何であっても、その結果は、キム・ジョンイル委員長と第二世代達に対する歴史的評価まで随伴する事となるだろう。


北韓の核開発は、北韓住民達には“自負心”であったが、反対に南側には深刻な脅威として受け入れられた。それと同じで、現在の視点でキム・ジョンイル委員長に対する評価は、南と北で互いに際立った差が見えざるを得ない。分断された状況で南と北の視角の差は不可避であり、そんな点で、キム・ジョンイル委員長に対する客観的評価は永訣式が終わった今から、始められると言う事が出来るだろう。今後キム・ジョンウン体制は、我々の対話相手である為、一層そうである。



●キム・ジョンイル委員長-年譜


1942年2月16日出生

1945年11月末帰国

1946年ナムサン(南山)幼稚園入学

1948年9月ナムサン人民学校入学

1954年9月1日ピョンヤン第一中学校入学

1956年12月朝鮮民主青年同盟加入

1957年9月1日ピョンヤン第一中学校高級班(1959年4月ピョンヤン・ナムサン高級中学校に改称)入学

1959年1月キム・イルソン首相のモスクワ訪問に同行

1960年9月1日キム・イルソン総合大学経済学部 政治経済学科入学

1961年7月22日朝鮮労働党入党

1964年3月18日大学卒業論文―社会主義建設での郡の位置と役割、発表

1964年6月19日労働党中央委員会組織指導部 指導員

1965年4月9日~21日キム・イルソン首相のインドネシア訪問随行1967年労働党中央委員会課長

1970年9月労働党中央委員会宣伝扇動部副部長

1972年10月労働党中央委員

1973年9月17日労働党組織また宣伝担当書記

1974年2月13日労働党政治委員(後継者確定)

1975年2月15日‘共和国英雄’称号授与

1980年10月14日労働党政治局常務委員、労働党中央委員会書記、労働党中央軍事委員

1982年3月31日‘主体思想について’発表

1983年6月1日~13日中国非公開訪問

1990年5月国防委員会第一副委員長

1991年12月人民軍最高司令官

1992年4月人民共和国元帥称号

1993年4月国防委員長就任

1997年10月8日朝鮮労働党総書記就任

1998年9月5日国防委員長再推戴

2010年6月13~15日キム・デジュン大統領と南北首脳会談

2007年10月13~15日ノ・ムヒョン大統領と南北首脳会談

2008年末キム・ジョンウン後継者指名

2010年9月28日党代表者会議開催。後継者キム・ジョンウンを党中央軍事委 副委員長に任命

2011年5月20日~27日7泊8日中国訪問

2011年8月21~25日ロシア沿岸州訪問、24日メドベージェフ ロシア大統領と首脳会談

2011年12月17日逝去


(訳 柴野貞夫 2012年1月7日)