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(韓国 統一ニュースコム 2012年1月18日)

http://www.tongilnews.com/news/articleView.html?idxno=97336


キム・ジョンイル国防委員長以後、北方の未来1-2


“私には、本当に時間がない”


チョン・ギヨル教授のピョンヤン通信―大国喪に直面した北同胞達




●<訳者注―長文のため、2回に分けて訳出します>



[チョン・ギヨル(中国精華大学招聘<しょうへい>教授、北京在住 英文媒体第4言論―責任主筆)]





●12月22日到着時と、31日発つ時見た、北方同胞達の姿の違い





  
 

△弔問客に温かい飲料を提供している。[写真―チョン・ギヨル]


前に紹介した<第4言論>のピョンヤン通信などに既に紹介された様に、12月22日到着した時のスンアン空港(訳注―平壌順安国際空港)、ピョンアン市内、特に朝鮮中央通信と労働新聞を通して見た北方の津々浦々の姿は、言葉通り“全世界が、悲しみと悲痛に溺れた血の涙の海”そのものだった。当時の姿を筆者は、北方同胞達の視線を“まともに合わせる事さえ難しいほどだった”と書いた位だった。


しかし、12月31日早朝、ピョンヤンを出る時、スンアン空港で会った北方同胞達の姿は、“悲しみを、既に千百倍の力と勇気に変えた”姿だった。その日は、目を互いに合わし、挨拶も交わす事が出来た。彼等すべてに、心から差し上げた“力を出してください”と言う激励に、彼等すべては感謝の意味で、一様に、平素の彼等特有の透き通った微笑と美しい目笑で答えた。ほとんど全ての空港職員達の明るい姿と、たまに聞こえる笑い声、話し声、忙しく働く姿などは、ピョンヤンを出る筆者の足取りをとても軽くした。恐らくこんな体験は、筆者一人だけの経験では無い様だ。一緒に発った在日同胞達を含む、百余名の身近な(近い)海外同胞達の経験もまた同じ様だった。


12月29日全国追悼大会を最後に、あらゆる公式追慕行事を終えた北方同胞達は、少しずつ、もっと元気を出し始めた。変化は、10日いつも見た高麗ホテルの従業員達の姿から、感知されはじめた。筆者が10日間滞在した21階26号室を掃除された50代後半に見える女性も、早く元気を回復していった。到着した22日、初めての日お会いして、控え目に“元気を出して下さい”と激励した一言に、廊下に急に走り出て、嗚咽を爆発させたのが他ならないその女性だ。元気を取り戻し始めた彼等を見て、(ピョンヤンを)発つ事となったことも、少なからぬ慰めとなった。


ピョンヤン市内を行き交う人々の姿と足取りにも、元気が感じ始まった様だ。特にピョンヤン市内の名物に定着した、花の様に美しい乙女交通警察達の綺麗な腕の動きにも、少しずつ蘇って見えた様だ。

発つ前の日、12月30日夕方、高麗ホテル1階冷麺店で滞留全期間、筆者を助け取材を一緒した“四人組”が、初めて酒席を共にした。


彼等すべてに経験した事だ。北方同胞達全てが、少しずつ蘇っている経験だった。彼等自身も、そしてピョンヤンを訪問している我が(海外同胞)達も、彼等と一緒に皆少しずつ、しかし早く、元気を回復するのを経験した。互いに元気を出しなさいと激励した。美しかった。以心伝心と言う言葉は、喜び、悲しみ、痛みなどなどを、隣人と真心で一緒に分かち合う、我が民族の美しい共同体気質を良く表現し、代弁してくれる言葉の中の一つだと言う事が出来る。


即ち、その以心伝心の元気は、12月29日を境に、ピョンヤンから始まり全国に瞬く間に広がって行った様だ。北方同胞達全てが、悲しみを踏みつけ、早く互いに激励し介添えしてやり、元気を回復したようだ。筆者の腰を治療した手技治療師も同じだ。彼は一日二日前ほども、目がどんどん腫れ、見るだけでも心が痛いほどだった。幼く見える看護員の顔姿も同じだった。29日夕、よる12時公式追慕行事を最後として、全国のあらゆる保険活動家は10日ぶりに初めて完全な眠りを取ったと言う。別れる前の日、12月30日会った手技治療師と看護員の顔には、すでに明るい元気が急速に回復されていた。




“核武器より、強偉力だ”と言う、北方同胞達の“一心団結”は、既に一つの歴史の現実だ。





   

告別式で、嗚咽する北方人民達。[写真―チョン・ギヨル]あれる


ほとんど70年に至る長い“北・米対決史”を、“いまだ皆無な、継続される奇跡の歴史”だと定義する事が出来れば、その奇跡を可能にして来た力の源泉は、一言で何と表現することが出来るのか?恐らく喜びも悲しみも痛みも、すべての試練と困難と苦難と空腹も理解しているので、持ったすべてのものを、喜んで、進んで、真心で分ける術を知る、我が民族固有の“以心伝心”の心がけとして、一緒に共に分かち合う北方同胞達の美しい心根が可能とした“一心団結”の政治思想、組織生活、共同体文化ではないかと思う。


南と海外で、よく“大同団結”と呼んでいる北方の“一心団結”とは、一言で言葉と意味に圧縮された、大部分の北方同胞達の美しい政治思想、心性、品性、文化、具体的な生活の現実が、一握りも駄目な韓国、日本の親米事大買弁勢力達は無論、そんな類(たぐい)の案山子や傀儡達を前に立たせたまま、軍事侵略の試みを止めないあらゆる帝国主義連合勢力達を、終わりなく挫折させ、無力にする最も重要な精神的、政治思想的背景ではないかと思う。




△ピョンヤン市内の地下鉄入り口にある看板。“革命的同志愛に基づいた、一心団結を一層強化しよう!”とある。[参考写真―この写真は、筆者のものでなく、訳者が撮ったものである]




北・米対決史”と言う観点から見る時、北方同胞達が成し遂げている、去る6~70年の歴史を“人類史的意義を持つ偉大な奇跡の歴史”と定義することとなる理由だ。


北方同胞達の“一心団結”は、言葉は言葉だが、言葉でない具体的な一つの歴史の現実だと、定義する事こそ正しい様だ。一心団結は、その何と素晴らしいスローガンは、どこか、遠い所にある目標でも無い様だ。何か蜃気楼の様なものでは、無論ないようだ。その何かの幻想でない事は言うまでもない。


“一心団結”と彼等が言う、その何らかのものは、北方同胞たちの意識の中に、心の中に、彼等の生活の中に、彼等の笑いと泣く事の中に、彼等の夢と未来、理想の中に、そのあらゆる処に、いつも共にある。そこで、彼等全ての息遣いと笑いの中で、互い互いに取り合った手の中で、互いの目が合うその瞬間の中から、毎日毎日具体的に感じて経験される、北方同胞達の存在それ自体だと定義することこそ正しい様だ。


北方同胞達が口癖の様に語る“一心団結”は、すでに彼等の生活のあちこちに奥深く体現されている北方社会と彼等の人生の、極めて具体的な現実のようだ。

“一心団結”は、未来のいつの日か、現実化されなければならない夢ではなく、昨日今日、彼等の命と仕事の中で、彼等の具体的な生活現場で、毎日毎時間体現されている、一つの具体的な歴史の現実である事だけは明らかなようだ。


逆に、この様にも理解する事も出来るようだ。一心団結と言うものが、もし、彼等の人生の具体的な歴史の現実であり、それらの存在自体がなかったら、過去数十年の、そのながい苦難の行軍の時期、特に1990年代後半の全くの孤立無援の状態に陥り、一層徹底して、孤立され包囲されたまま、食べて、着て、被って暖める事さえ、言葉通りあらゆるものが不足し、無かった時に、彼等はすでに数十回も倒れたであろうから。





  

△告別式で二人の女性が悲しみに沈んでいる[写真―チョン・ギヨル]


昨日は勿論、今日も、彼等が健在だけではなく、そのどんな挑戦と試練も、堂々と迎え撃って片付け、今は“経済にも、陽を多く当て、冨強する”と言う意味と趣旨の“強盛国家建設”に向かい、“具体的な中長期経済発展計画”に従い、大股で大きい歩みを踏みだしていると言う昨日今日の具体的な歴史の現実が、彼等の社会が頭の先からつま先まで組織化されて、この世の何処にも、同じ歴史的事例を探すのが難しい“一心団結の社会”と言うものを具体的に雄弁に物語っているからだ。


事実、北方同胞達の一心団結の具体的歴史の現実は、昨日今日の事ではないと言うことが出来る。1920年代後半、十代の歳から向こう20余の年月にかかって継続された、キム主席が率いた抗日武装闘争の歴史の全期間全てが、一緒に体験し、経験した“一心団結の具体的な歴史の現実”が、すでに存在した為だ。


抗日武装闘争史の全期間、彼等が集団で一緒に経験した“一心団結”の具体的な歴史経験は1950年代初め、米国との戦争で全国が灰燼と化し、数百万の人民が犠牲となった時、彼等がまた再び、最悪の条件、環境、境遇から、国を新しく起こさなければ駄目だった時、北方同胞達の絶対多数が、また再び具体的に一緒に共同で体験した歴史経験も以前に体験した為だ。


その時も彼等は、全世界が見ろと言うように、また再び起き上った。あらゆる苦難と試練、挑戦を踏みしめ、乗り越え、また越えて、聳え立った経験があるのだ。そのあらゆる過程を越え、70年近く過ぎた今日に至るまで、彼等の歴史の全期間には、今日彼等が言う“一心団結”の政治思想と文化、心性、組織生活がいつも根本に一緒だったようだ。


彼等の歴史を、日が経ち年を加えるほど、むしろ、核武装国家を基本背景として更に“冨強に”して行く根本背景には、彼等が今日、彼等自らを“政治思想強国、軍事科学強国、文化強国”と呼び、ひいては“経済的にも富強となる”と言う意思が、空を聳え立つ様にするそのあらゆる背景には、また、そのあらゆる事を可能にする根本背景には、北方同胞達の、存在それ自体である“一心団結”と呼ばれる政治思想意識と、組織生活、文化があった様だ。(訳者注―原文の‘取材後記’は割愛しました。)


(訳 柴野貞夫 2012年2月5日)


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