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(韓国民衆言論 チャムセサン 20071018日付)



       国家保安法を廃止しない韓半島の平和は矛盾している


ペ・ソンイン(韓国神大)



“分断”の冷戦と“国家保安法廃止”の熱情の差異

向日葵(ひまわり)が、どんな考えであるか解らないが、仕方なく空だけ見上げる。コスモスは、風が吹けばしきりに揺ら揺らするだけで、すぐにでも倒れそうだ。いま、色とりどりに美しい紅葉が、空の下の温山(訳者・注、全羅南道)を彩る準備をしている。このような日、山を登ってみれば真っ白い嫁菜(よなめ)、黄色い菊花が、はにかむように頭を出して挨拶をする。本当に秋の風景に身をゆだね、のんびりとぶらつきたい季節だ。
そうなんだが、忙しいので思い込んだ通り出来ない現実なので、どんなにしても暇を作ってと思う。このとき、その間、見ることが出来なかった映画を見たりするが、最近「伝説の故郷」、「ムイ」「黒い家」「解剖学教室」など、2007年度上半期に封切られた代表的な韓国の恐怖映画をみた。映画鑑賞は、機会を逃せば見るのが難しいので、後でビデオテープやインターネットで見るのだが、画面が小さければ感興が落ちて、時たま無念無想の境地に至ったりする。そのうえ、韓国の恐怖映画は、互いに、厄払いのつまみ食いで似ているのも、ナレーティブの反復で時間を浪費するのにもってこいだ。
しかし、映画の中に登場する幽霊より、残酷で気味が悪くて、飽き飽きする幽霊が、南韓社会に60余年の間、徘徊している。即ち“国家保安法”だ。2000年“6.15南北共同宣言”を起点として、去る200710.4南北首脳宣言に至るまで、時代が極めて変化したのに国家保安法はただの一行も変えられなかった。
南韓社会の国家暴力の代名詞は、国家保安法だ。 個人の内面まで統制して、国家が提示する価値観と立場に反対する考えを持つ事だけでも、反国家事犯にならねばならぬと言う国家保安法の存在は、南韓を桎梏と苦難の土地に作った。南韓社会で、国家保安法が存在することが出来る様式は、国家暴力秩序が容認される土壌だ。
これまで数十年の間、国家保安法が守ったものは、“国家安保”ではなかった。それは即ち、独裁勢力の“政権安保”だった。国家保安法を、武器をつかって支配勢力が守ってきたものは、自身らの利益を保障させて、再生産することであった。即ち、国家保安法の制定と適用を行い、守ってきた国家と支配秩序が、親外勢の民族反逆者や脱法・人権蹂躙・腐敗・非合理的行為者らの既得権を温存させると言うものであった。安保は、法律だけで守られるものではない。法律的にも国家保安法だけが国家安保を守る法律ではない。国家保安法は、北の対南戦略の防御のための手段ではなく、南韓の人々を統制するための法として即刻廃止されなければならない。時代が変化したからには、改定よりは果敢な廃止が必要だ。
時代が極めて変化したのに、ノ・ムヒョン政府の出帆以後、国家保安法の拘束者数は2007年9月現在、158名に達している。南北最高指導者が7年ぶりに会談を進行したにも拘らず、国家保安法関連拘束者が増加していて、裁判が進行されている状況は、分断体制の矛盾的現実を見せつける。
現在、国家保安法に基づく捜査を広げている所は、警察庁保安捜査隊と、国情院(国家情報院)、キムサ(国軍機務司令部)など三箇所だ。特に各地方警察庁に所属させた全国35箇所の保安捜査隊は、国家保安法事件を集中的に“作り出す”機構だ。2006年の基準で警察庁保安捜査隊は手続き人員2232名であるがこれら部署の中で57%である20箇所で、2年間保安事犯を一名も検挙出来なかった。これら公安部署などが担当する事件の88.6%が労働関係法違反で、大部分、雇い主の賃金遅配事件であって、保安捜査隊の役割が韓国社会でどれだけ微々たるか、推し量ることができる。こんな情況で見るとき、最近増えた国家保安法違反事件などは、公安機関らが、実績の為に作り出したものであることが分かるのだ。
最近、国家保安法の適用事例を見るのだが、またもう一度、感嘆が自ずと流れ出てくる。一心会事件(訳注、“386世代”の北韓スパイでっちあげ事件、当サイト・“世界の新聞から”参照)は、あれほど喧しかった第七条や、十条でなく“会合・通信”(第八条 会合、通信)を適用した。(訳注 資料1,2 参照)同様に写真作家イ・シウ事件は、第五条である “自己支援”の条項と軍事機密保護法の違反嫌疑を適用した。勿論これら事件に対して国家保安法が適用される法理の構成過程や、執行の様相は、いつも通りだ。国家保安法の柔軟性(訳注 法律解釈が権力によって恣意的に行われると言う意味)を、もう一度確認するようになる理由だ。
これら事件を通して、相変わらず、国家保安法は一人の問題ではなく我々全ての問題であることを確認した。いまだに国家保安法は、誰に対しても適用されることが出来るのだ。盛りの過ぎた過去の法ではなく、歴史を貫通する古い問題と同時に現在と未来の問題なのだ。
キム・デジュン政府からノ・ムヒョン政府に至るまで執権勢力は、国家保安法を廃止すると、国民に頻繁に約束したが、いつもその約束を壊してしまった。かれらは、国家保安法を保守勢力との談合のための政治的道具に転落させてしまった大きな罪をやらかした。かれらの胸に、一抹の良心が残っていたら、今であっても、国家保安法を廃止しなければならない。
知識人達にとって、国家保安法は、学問の自由を抑圧する道具に過ぎない。これは、人類の進歩のための絶対的条件である真理を探究しようとする創造的人間の活動をさえぎるものだ。学問の自由は、国家の文化発展や、国民の生活向上のための精神的土台だ。学問の自由を保障することこそ、人類の進歩が可能となり、言論、出版の自由や、思想、良心の自由など、あらゆる精神的基本権が、その実質的内容を持つことが出来ることとなるのだ。学問は、人間精神の貴重な成果であり人類文化の集中的表現であることに、特別な配慮と慎重な対応が要請され、学問の進歩は、文化の先駆的役割を担当するものであるから、あらゆる隷属から解放されなければ為らない。現今、ほとんど全ての学者たちが、思想表現の前提として学問の自由を認定しているのもこのためだ。そこで、国家保安法の廃止が何よりも施行されねばならない。
さらに、韓半島が平和と和解の道に出て行くためにも、政治的利害関係にそって自意的に適用されてきた国家保安法を廃止することが急先務でない事はない。現在、南北韓全てに重要な事は、信頼構築だ。信頼することは、言葉より実践で見せることこそ、効果がある。韓半島の平和定着のためには、民間次元の交流と南北住民相互間の信頼と連帯が重要だからだ。
今回、2007首脳会談を契機に南北双方は、互いに敵対視して協力関係を遮る法と制度を、全面的に廃止しなければならないのだ。南北和解、協力と交流が拡大強化される時代に、北を敵対視する国家保安法が存在する理由もなくなった。また、南北が互いに制度と理念を尊重して認定する問題も、首脳会談を契機として、更に進展されなければならない。同様に、民主主義を願う全ての人々は、団結して、表現と思想の自由を擁護して国家保安法廃止の先頭に立たねばならないのだ。
                                              (訳 柴野貞夫)

資料1) http://www.geocities.co.jp/WallStreet/3277/hoan.html

(資料2
) http://ko.wikisource.org/wiki/%EA%B5%AD%EA%B0%80%EB%B3%B4%EC%95%88%EB%B2%95