ホームページ タイトル

 

(韓国 週刊誌 <ハンギョレ21>第709号・2008年5月9日付)
http://h21.hani.co.kr/section-021019000/2008/05/021019000200805080709047.html


           民主主義の花ネパール、胸がジーンとする



                     カトマンズ・ポカラ・カプリ(ネパール) イ・ユギョン、国際紛争専門記者



原住民女性など疎外階層が大挙選出され、マオイスト(毛沢東主義者)は第一党に

その日、多くの人々が語った。‘胸がジーンとする’と。ネパール現代史の起伏を、倦まず弛まず記録してきた写真作家アーネスト、国際選挙監視団の委員をしてきたアダム・クーパー、アジア自由選挙ネットワーク(ANFREL)代弁人(スポークスマン)も、その選挙監視団をさらに‘監視’した、カウディプラターン・ネパール国家人権委員会代弁人も、私も同じだった。そんなに数多い人々を感動させたネパール制憲議会選挙、投票場の熱望は、結局新しいネパールに責任を負う‘国民代表’の顔を確実に置き換えた。

(△写真1)‘革命の第一歩、今日を記憶して下さい〜!’ネパール首都・カトマンズで当選した毛沢東主義者(ネパール共産党毛沢東主義派)・女性指導者、ヒサルラ・ラミが、花束を首にかけたまま明るい表情で支持者らの祝賀を受けている。カトマンズ一帯で予想外の善戦をした毛沢東主義者は、都市と農村全てで、確実な支持基盤を築き固めた。

“彼らは、率直だった”

キリジャ・プラサデュ、現総理(ネパール議会党)の甥と娘など‘一族の嗅官’を背負って当選が確実視された‘コイララ・フアミィリー’は、大挙惨敗した。また、他の主流政党である‘ネパール共産党・マルクスレーニン連合’は、強力な支持基盤である首都カトマンズ一帯で、ただの一席も得ることが出来なかった。共産党反対性向が強い有権者らが、カトマンズ一帯の15選挙区中、五つの場所でネパール議会党に票を投じたことを除いて、二つの共産党の間をまごついた共産党性向の有権者らは、‘ネパール共産党・毛沢東主義派’側に大挙殺到した。“マオイスト(毛沢東主義者)が有権者を脅迫して票を得た。”と言う二つの主流政党の主張が貧乏たらしいのは、即ち、そんな脅迫や暴力事態がほとんど無かったカトマンズ一帯でも、マオイストの宣伝が際立っていたためだ。
マオイストは、55の政党が参加した今回の選挙で、直接選挙の議席の過半である120席を、比例代表議席では約2992%の支持率を得て、一位となった。全体の601席の中で、総てで220席を確保することで、最大の政党に浮かび上がったのだ。
ネパール共産党―マルクスレーニン連合の、マタブ・クマル事務総長さえ、名前も見慣れないマオイスト候補、チャク・プラサテユ・スベド(46)に負ける侮辱を受けた。“私の名前が疎いなんて!‘人民戦争’(マオイストの武装闘争)が始まった1996218日以後、初めて拘束された人間が私だ。分別ある人は全て知っている。”大物政治人を押さえるからなのか、スベドは自信感と余裕が溢れた。“選挙運動期間に住民達は私に‘飲み水’供給方案を提出しなさいといった。私は即座に、水を準備することは出来ないが、今回の選挙は憲法起案のためなので、良い憲法が作られれば‘飲み水’供給も可能になるのだと語った。”他の候補らが、偽りの公約を乱発したのと異なり、有権者達に率直に近づいたのが勝利の背景だと言う話だ。
マオイストの‘変えて、変えて’のスローガンの様に‘素直な’接近が、有権者の心を動かしたと言う主張は、つまらない声ではない。カトマンズ市内から車で3時間の距離であるカプリ地方の第四選挙区、この地方の中心都市テュリケルから、またバスと徒歩で四時間をさらに行ってやっと着くことが出来る山間の奥地、サピン村の出身であるアジュン・キリ(30)は、“内戦の期間には、そうでなくても食べるものがなかった村に来て、寝るところと食べるものを要求するマオイストが嫌いだった。”と語った。しかし、“マオイストは、率直だった(frankness)”と彼は付け加えた。“戦争時行われた選挙で、他の党が村の代表を通して金をばら撒いたら、マオイストは‘食べるものを出すことは出来ないが尊厳と権利を持って来る。’と言った。”そうしては、時々、村に米を持ってくることもした。反面、1998年総選挙当時、この地域から当選した議会党候補、ラジェントウラ・カレル(55)は、マオイストと保安隊にかわるがわる悩みを受けることに耐えられず、カトマンズまで訪ねて来た住民らに“これ以上、其処から出馬しない”と冷ややかな反応を見せた。しかし、選挙の季節になるやいなや、かれは、またネパール議会党のレッテルを持って‘地方区’に戻った。民達はタルリトウ(不可触民)出身であるマオイスト候補、テルバハトウル・ミジャル(40)を当選させた。
(△写真2)共和国よ、やって来なさい。‘タルリトウ(不可蝕民)、原住民、そして女性’マオイスト(毛沢東主義者)活動家出身のトゥルガ・クマリ・ピショカルマの当選は、今回‘選挙革命’最大の象徴として呼ばれるに値する。

最初の議題は‘王政の運命’

今回の選挙が‘革命的’と呼ばれるのは、即ち、ミジャルの様なタルリトゥ(不可蝕民)を初めとして原住民と女性など疎外階層が、大挙、国民の代表として選ばれたと言う点のためだ。マオイストの武装闘争が始められて以来、12年間、12回政府が変わっても、なかなか変わらなかった腐敗政治と、プラマン・チェトウリ等の上層カーストが及ぶ社会を掌握して来た根深い差別構造は、今回選挙を契機として重大な挑戦を受けることとなった。当然マオイストの功績が大きい。マオイストは、原住民当選者81名中50名、女性当選者29名中23名を輩出した。タインチョン、カーストの身分社会だったネパールが、長い間念願してきた‘包括的民主主義’が華麗に咲いてきたわけだ。
トゥルガ・クマリ・ビショカルマ(26)は、‘選挙革命’の最大の象徴だ。タルリトゥ(不可蝕民)に、原住民、そして女性であると言う疎外階層の‘三拍子’を全て揃えた彼女は、中部カスキ地方の第4選挙区で、ネパール議会党高位幹部を押さえて当選した。最年少・女性当選者と言うのは、記録も打ち立てたが平和に向かった若いこの人々の熱望が、その当選にひっそりと込められている。
マオイストの学生組織で活動していた去る2000年、国王の保安隊に拘束され‘女性には、加えてはいけないあらゆる種類の拷問’を2年の間受けたと言う彼女は、拷問後遺症で人民解放軍(マオイスト・ゲリラ)の夢も引っ込めた。当選確定直後会った彼女は、何時も通り弱弱しい素振りがありありと見えるが、口こそ開けば逞しい口調で目つきが輝いた。“私の勝利は、ネパールの人口の半分である女性たちの勝利であり、わたしの様に封建王制に搾取を受けてきた民衆の勝利だ。”そんなにながい239年の間、‘搾取の良き歳月’を享受してきたポンゴン王朝は、今、歴史の裏道にはいっている。選挙の最終結果が出た後、21日以内(5月中旬ころ)に召集される初議会から、制憲議会は、‘王室の運命’を一番目に扱う予定だ。
しかし、山を越えればまた山がある。‘ネパール民主共和国’は、第一歩を踏み出すのに怖くて選挙直後からギクシャクした道であり、険難な行程を予告している。

政治圏の‘反乱’の中に、国民軍統合など難題を残して

一番目に、政治圏の‘反乱’だ。ネパール議会党側には、マオイストが有権者を脅迫した為に党が敗北したと言う話を、持続的に言論に流して、現総理が総理職を維持しなければならないと言う主張を拡げている。選挙結果を受容すると言う党の‘公式立場’とは反する行動だ。このためマオイストに最も批判的だったネパール最大の言論企業‘カンティプル・パブリゲイション’の英字紙<カトマンズポスト>さえ、426日社説で“(選挙結果に対する不服は)ネパール議会党の自殺行為であって、国家的災難だ。選挙結果を通して国民が明らかに要求したものは、マオイストが国政の責務者となる事だ”と書いた。
ネパール共産党−マルクスレーニン連合は、選挙が行われた後三日目に、党所属の長官たちが連立政府を離れて集団辞表を提出した。428日始まった党中央委では一層ひどくなった。マオイスト政府に参加しないと言う意見を集めた一方、“国家の‘最高位職’の場所を分けよ。”とマオイスト側に要求した。自己矛盾に陥ったわけだ。
政治圏の‘反乱’は、敗北した政党からだけ現れる現象ではない。去る2年間の紛争に巻き込まれてきた南部マテシ地域で、直選議席40席を得て、第4党に浮かび上がったマテシ権利フォーラム(MJF)のウペンドゥラ・ヤダブー代表は、強度の高い自治要求が受容されなければ政府に参加せず、また他の騒擾事態を引き起こすと言う立場だ。自身の党の主導の下、連立政府を構成しようとするマオイストには、このあらゆる‘反乱’が手付かず残されて、将来にたちふさがる障害物だ。

“マオイストが第一党になったが、絶対多数の議席を得ることが出来ないのは、互いに協力して平和協議を良く仕上げなさいと言うことではないか。”マオイストに一票を投じたが、主要政党らが連立政党に参加して互いの長短点を補ってくれるのを願うカトマンズ市民、ラジュ(39)の話は、‘反乱’の政党らも傾聴する必要がある。
二番目に、マオイストの人民解放軍と王朝冶下の国民軍統合問題は、難題中の難題を残している。マオイストと現政府の主軸である‘7つの政党連合’が、2006108日国連を‘証人’として立ち上げ、締結した‘武器と軍隊に関する協定’(AMMAA)に従い、約23千名の人民解放軍は、現在ネパール全域7つのキャンプで国連の監視下に‘閉じ込められて’過ごしている。国民軍もやはり、規定された業務を除外すれば、兵営内に閉じ込められている。両側の敵対行為を確実に中断させる為だ。二つの軍隊の合併を、基盤とする‘共和国軍隊’の誕生がマオイストの願いだとすれば、他の政党は合併に反対している。何よりも、当事者である国民軍側は、“特定の政治勢力と思想的に連携された軍隊を、国民の軍隊として受け入れることは出来ない。”と言う態度である反面、マオイスト側は、“国民軍もやはり、この間まで‘王室軍’ではなかったか、”と、特定勢力連携論に反駁している。
人民解放軍の戦士出身たちが、一部包含されている青年共産党連盟(YCL)の解体も論難(物議)の種だ。残り二つの政党は、解体を強力に要求しているがマオイストは‘考えにもない’と一蹴している。

三番目に、経済の暮らしは全国民が念願する中長期的最大課題だ。マオイストが最も負担を感じる部分でもある。マオイストが早めに、向こう1015年を‘経済革命の時期’と宣布した理由だ。
“(マオイストは)早くから、資本主義を揺り動かしている。彼らも、仕方がないのだ”カトマンズの都心、タメルの街路で書店を運営するピドゥル・ダンコル(49)の言葉のように、マオイストが標榜した経済革命は逆説的にも、資本主義の路線だ。ネパール経済が、社会主義を実現してくれる開発と生産力に、全く及ぶ事が出来ないと言うのがその理由だ。マオイストは一時、‘金品強要’の対象だった経済人達にせっせと会って、‘国営化はしない。安心せよ。’とか、‘個人投資を活性化する’と言うなどの保証をする為に忙しい。

マオイストも‘数字経済を生かす’

マオイストの資本主義路線は、‘水の民営化’と言う政策にも余すところなく現れている。再活部長官と同時にカトマンズで選出された、マオイスト幹部であるヒシルラ・ラミ(48)は、‘水力・電気産業を民営化する’と言う意向をいち早く明らかにしたところだ。ネパールは水資源が豊富だが深刻な水・電気の不足事態を経験している。山岳地域に居住する住民達は、低地帯の渓谷水接近がむずかしいのだ。大都市でさえ地下水依存度が高い程で、上水施設が絶対不足したせいだ。下水施設も脆弱で、処理されない生活下水が地下水を汚染させながら、ネパール人全体の疾病の80%ぐらいが、各種水因性疾病であるほどだ。水力発電に活用される水資源も全体の家用量の1lにも及ぶことが出来ないために、首都カトマンズさえ、一日8時間以上電気が止まることは常例だ。
問題は、民営化が、渓谷、都心を言うまでもなく、‘飲み水’に対する渇望がこみ上げる極貧層に、水と電気の安定的供給を保障することが出来るのか疑問だと言う点だ。マオイストの経済革命がどんな姿で出てくるのかを時間をかけてみることだが、絶対貧困のレッテルを剥がすと言う性急な意思が、やや‘数字経済を生かすこと’にいくのではないかと言う憂慮が、早くから出ている。
選挙も宴(うたげ)も終った。そうであるがカトマンズの街と商店、喫茶店とホテルのロビーごとに三々五々集まって政治討論する場面は、相変わらず容易に見ることが出来る。‘新しいネパール’に向かった国民の熱望は、つつましいが非常に高い。反軍ゲリラ組織で最大の主流政党として変身したネパール共産党ーマオイスト(毛沢東主義者)。10余年、険しい山岳を行き来して夢見てきた彼らの‘人民共和国革命’は、今また、違った険しい山脈を目の前に置いている。彼らに歴史的機会を負わせたネパール国民は、マオイストの継続される革命から、目を離していない。 
                                                        (訳 柴野貞夫)