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(韓国・チャムセサン コラム 2008221日)
http://www.newscham.net/news/view.php?board=renewal_col&category1=68&id=1266


            世界的碩学、否、虐殺戦犯だ
             −戦争犯罪者ヘンリー・キッシンジャーの訪韓



                                                           イ・ジョンホ


ヘンリー・キッシンジャー(85)が来た。朝鮮日報が2122日ソウル新羅ホテルで開く‘第2回アジアンリーダーシップコンファレンス’に参席のため訪韓した。彼の口で、1951年に初めて訪問したと言うのだが、半世紀を越えてこの土地を往来した訳だ。
朝鮮日報は、20日すぐ、1面にインチョン(仁川)空港に降りたキッシンジャーを報道した。写真の下には“指導者は、自分だけのビジョンがなければ”為らないと言う一声をタイトルに、一つのインタビュー記事を載せた。キッシンジャーはイ・ミョンパク当選者を“信頼できる指導者”と、押し立てた。過ぎた5年間の損傷された韓米関係の復元に関心が多いとも言った。韓半島の統一を支持するが“北核問題が解決されることなしには不可能だ”という冷戦思考も足元に撒き散らした。
朝鮮日報は20日直ぐ、8面全体をはたいて、自社主催のこの行事を紹介した。8面の記事の題目は“世界のリーダー達と一緒にアジアの未来を描いてください”だった。八十を超えた戦争犯罪者・キッシンジャーを呼んでおいて、アジアの‘未来’を描くだとか、アジアの‘過去’や‘没落’と言っても分かるのか。
キッシンジャーは、19235月、ドイツ、ピルツで生まれたユダヤ人だ。1938年、ナチを避けて逃げてきたキッシンジャーは、第二次(世界)大戦末、米占領軍として祖国ドイツに帰ったが、すでに米国の国籍は得たあとだった。終戦後10年を越えるぐらいハーバードで静かに過ごした。うわべは、キッシンジャーが習って、教えた科目は政治学だ。しかし、中身は戦争学だ。かれは、195969年まで防衛研究計画を主導しながらパックスアメリカの門を開いた。本格的な政治的歩みは、ニクソンからフォード行政府まで、白亜館(ホワイトハウス)の国家安保補佐官(196975年)と国務長官(197377年)をした時だ。しかしキッシンジャーは1955年から軍出の大統領アイゼンハワーや、セックス狂ケネディ、ジョンソンを、あまねく経由しながら安保分野で仕事をした。冷戦が、キッシンジャーをひっそりと育て上げた。
韓国言論は、キッシンジャーを穏健一派と分類する。しかし、彼は極右派の盟主だ。1969414日、東海(日本海−訳注)公海上で米海軍の電子諜報機EC121(スパイ飛行機)が、北韓空軍機に撃墜され乗務員31名が全員死んだ。ピュリツアー賞に輝くニューヨークタイムズ出身の、探査報道専門記者シーモア・ハーシュ(Seymour.Hersh)は、1984年に書いた‘権力の対価、ニクソンホワイトハウスのキッシンジャー(Pris of Power:Kissinger in the Nixon White House)’で、当時の秘話をこのように紹介する。“この飛行機は、68年拉致されたプエブロ号と同じく、敵性国の通信(スパイ)傍受を専門にした。当時大統領ニクソンと安保補佐官キッシンジャーは、武力報復を主張した”と。このときキッシンジャーに対立して戦争を止めさせた側は、CIAだった。CIAは、北韓の通信を傍受した結果,故意の挑発ではなく、北韓の管制の間違いだと、穏健策を主張した。ニクソンはこれを受け入れた。当時米国が意思決定の2因子であるキッシンジャーの主張通り武力報復をしたならば、韓半島は、今ごろは地図から消えたことだろう。
私達の国を無くそうと考えた老人らを「碩学」(大学者)だとし、招請する新聞社がある。この仕事をする、朝鮮日報出身のチョ・ガムジェが書いた本‘国家安全企画部(1988年)’218ページにも詳細に出てくる。



大法螺吹きキッシンジャーは、197411月フオード大統領と一緒に米国務長官として訪韓しても“韓国の国務総理(キム・ジョンピル)と国会議長(チョン・イルゴン)が、自分のハバード大学の弟子”だと大げさに言う。キッシンジャーは多くの女優と歌手達と、紊乱な私生活の終わりに、74年春、ナンシー・ぺギンスと秘密結婚して、好事家たちの口を楽しくした。この間までヨルリンウリ党(開かれた我が党)の顧問であったチョ・セヒョン前議員が書いた‘ワシントン特派員(1976年、ミンウム社、48ページ)’にも、キッシンジャーの大法螺吹きの気質はよく出ている。チョ・セヒョンは、キッシンジャーが政治の一線で飛び跳ねた196874年まで、韓国日報ワシントン特派員を直接経験した。
パク・チョンヒ軍事政権の、ぞっとする維新独裁時、本を書いたチョ・セヒョン記者でさえ、キッシンジャーを‘アジアの未来’とおだてることは無かった。ところで、言論の自由が横行する21世紀に、キッシンジャーを英雄として描く新聞社がある。チョ・セヒョンは、彼の本でキッシンジャーの成功の秘訣を“カーボーイのように一人で行動するところに在る。”といった。無慈悲に為るぐらい現実的”であり、“力の尊重”を信仰として考える人物として描写する。30年前の文法を勘案すればチョ・セヒョンが見たキッシンジャーは、‘ならず者ブッシュ’を凌駕する。
カンボジア、殺人フィールドは、196973年の一期と197579年の二期にわけられる。一期殺人フィールドは、米国が予め恣行した。しかし、我々はクメール・ルージュが執権していた二期だけ記憶する(注)。一期に、米国の爆撃で60万〜80万のカンボジア民衆が死んだ。一期虐殺時、米国はB52戦略爆撃機で539129トンの砲弾を降り注いだ。米国が第二次世界大戦の時、日本に落とした砲弾16万トンの3倍だ。一期虐殺の主犯はニクソンとキッシンジャーだ。キッシンジャーは、“ベトコン達がカンボジアを補給線とみなして、蠢動する。”とし、カンボジアの秘密爆撃を主導した。
遅れて、米議会が中立国であるカンボジア爆撃を問題とするや、キッシンジャーは“カンボジアに拠点を置いたベトコンを攻撃しただけ”だと、言い逃れた。キッシンジャーは、ベトナム - 米国間の戦争の第三者だったカンボジアに向かって秘密戦争を遂行した。
20054月‘ハンギョレ21’は、ベトナム戦終戦30周年記念として、前ベトナム軍総司令官・ボーゲンザップ将軍(当時94歳)をインタビューした。ボーゲンザップは、われわれに‘人民の戦争 人民の軍隊 ’として、さらによく知られたディエンビエンフーの戦闘の老将だ。彼は、“スエーデン科学アカデミーは、1973年平和協定の功労者にキッシンジャーと、レ・ドクト、当時北ベトナム首相を、ノーベル平和賞共同受賞者として指名したが、レ・ドクトはベトナムに真の平和が来ていないし、偽善者キッシンジャーのように卑屈ではない”と、受賞を拒否した事実を紹介した。こんなキッシンジャーが世界的碩学であるとか、国際戦略専門家だと言う名前で、80を越えるまで好事的余生をすごしている。
                                                        (訳 柴野貞夫)

(訳者注)<ハンギョレ21>2005426日付第556号に、クメールルージュ前大統領、キュー・サムファンとのインタビュー記事がある。米国のカンボジア民衆への虐殺を語っている。

(http://h21.hani.co.kr/section-021003000/2005/04/021003000200504200556042.htm)