ホームページ タイトル

 

[日本国家による、中国・朝鮮に対する戦争犯罪糾弾シリーズ]A
中華人民共和国・人民網 20150812


  中華人民共和国・国家公文書局が『中国侵略日本人戦犯供述書選』を公開



中国人民抗日戦争ならびに世界反ファシズム戦争勝利70周年を記念するにあたり、日本軍による中国侵略の罪を暴露し、戦争に反対して平和を大切にするよう人々に促すため、国家公文書局は811日から31日間、動画『中国侵略日本人戦犯供述書選』を公式ウェブサイトで毎日1編公開する。人民日報海外版が伝えた。
動画は『中央公文書館所蔵中国侵略日本人戦犯供述書選集』(中華書局影印出版)から中国侵略日本人戦犯31人の供述書(供述書の原文、補足、訂正、追加など、および当時中国語に翻訳したもの)を選んだもので、これまで系統立てて公開されたことはない。
国家公文書局の担当者によると、中国侵略日本人戦犯文書内の各戦犯の供述書および詳しい尋問記録などの資料は、日本軍国主義侵略者が中国の人々に対して犯した途方もない大罪の動かぬ証拠だ。中国侵略日本人戦犯の供述書は、彼らが中国侵略戦争で犯した罪についての自供書だ。

『中国侵略日本人戦犯供述書選』第1回

日本人戦犯・杉下兼蔵の供述書を公開

 

                         

1回の要旨に基づいた上で、杉下兼蔵の19541129日の供述によれば、杉下兼蔵は1901年生まれ、日本・岐阜県出身。19322月に中国侵略戦争に参加したという。 杉下が白状した重要な犯罪行為として、以下のものが挙げられる。
193223日、「上海天楽寺の南方約8キロメートルにある某村で、中隊の命令により村全体を銃撃し、中国人民30人を殺害した事件を引き起こしたと推測される」。
193225日「中国人を敵視する心理」が生じ、「100人斬りを決定」し、「同時に、部下にもこのようにやるよう命じた」。「上海江湾鎮・復旦大学の裏通りにある北街口で、私は自ら7歳ぐらいの子供を1人捉えた後、その子を石の上に置き、更に石で叩き潰して殺し、近くの川にその死体を投げ入れた」。
1932219日、「陸家橋の火災から逃げて来た6歳ぐらいの子供1人を捉えた後、その子を入り口の石の上に置き、石で叩き潰して殺し、燃えさかる家にその死体を投げ入れた」。
1932225日、「上海江湾鎮付近の地区で、細菌を……計21箇所の井戸に投入した」。1932420日、「上海大場鎮の南側約1キロメートルにある陣地内で……師団が中国人の庶民10人を仮の敵として連れてきたので、部下の第二小隊の兵士60人を使い、小銃や軽機関銃で全員射殺した」。
1937117日、「楡次の北西方向にある六堡鎮で、私は中国人2人にお前は誰だと聞いた後、自ら拳銃で射殺した」。

『中国侵略日本人戦犯供述書選』第2回

日本人戦犯・湯浅謙の供述書を公開

      

                  

湯浅謙氏の19541120日の供述によれば、湯浅謙氏は1916年生まれ、東京都出身。19421月に中国侵略戦争に参加したという。湯浅が白状した重要な犯罪行為として、以下のものが挙げられる。
19423月末、山西省?安陸軍病院で捕虜に対する「生体解剖演習」を実施。その中の1名に対し「大量の麻酔剤を注入し、死亡と仮死状態の兆候を確認」。もう1名に対し「練習として気管切開術を施した」。実験後、もう1人の軍医と共に彼らをテープで絞殺した。
1942414日、山西省太原市第1軍工程隊(捕虜収容所)にて「山西省内の各陸軍病院と野戦病院に駐留する軍医約30人が捕虜4人に対し生体手術演習を実施した」。19428月末、?安陸軍病院の解剖室で軍医10数人が捕虜2人に対し「彼らを殺害するための生体手術練習を実施」。なか1名に対し「野戦気管切開器を用いて気管の切開練習を施した」。「もう1名に対し薬品効果により如何に人間を窒息死させるかについて生体の静脈内に麻酔剤、クロロホルムを注入」。
19433月末、?安陸軍病院で軍医10数人が捕虜2人に対し「生体を殺害するための手術練習を実施。」19422月から194311月、?安陸軍病院で「入院者から採取した腸チフス菌及びパラチフスA菌 とB菌の病原体を?安城南部の第36師団野戦防疫供水部に提供」。「細菌戦用として年間少なくとも4回も提供し、自分が8回以上提供した」。

『中国侵略日本人戦犯供述書選』3

日本人戦犯・三浦芳男の供述書を公開 20150814

                  
三浦芳男の1954年8月16日の供述書によると、三浦は1920年千葉県生まれ。1940年に中国侵略戦争 に加わり、19458月に捕虜になった。
重要な罪行には以下のものがある。
19418月、山東省泰安県で、新兵ガス教育小隊は「附近高地の畠の中に耕作して居る農民男八名を捕へ高地の窪地に座らせ」「風上より九五式中赤筒二本を点火発煙した」「地面に伏せて居る被害者を引き起し瓦斯を吸せました」。19419月、山東省莱蕪県で「隠匿兵器掠奪の為」「集体農民斬首二名」。19424月、山東省新泰県で「部落の家屋内に侵入し中国婦人二十七、八歳位を一名銃剣で威嚇し強姦しました」。19426月、山東省章丘県で「部落の家屋内に侵入し中国婦人二十七、八歳位一名を見付け寝台に横に倒し強姦をしました」。「隠匿兵器掠奪の為」「集体斬首平和農民九名」。8月下旬までに、隠匿兵器掠奪の為、「七十四名の農民を殴打の拷問にかけ」「此の中の十一名は自分が直接拷問虐殺しました」。
19432月、館陶県で「農民男一名三十歳位を捕へ」「私は銃剣で刺殺しました」。194410月上旬、泰安県で部下を指揮して「中国人男十三名(中略)を八路軍に通じて居ると云ふ理由で」銃殺した。10月中旬、仲間一人と共に中国人男一名を「八路軍に通じて居ると云ふ理由で」「銃殺」した

『中国侵略日本人戦犯供述書選』第4

日本人戦犯・三神高の供述書を公開 2015年08月17日

                 

国家公文書局はは14日、公式サイトで『中国侵略日本人戦犯供述書選』(四)−−日本人戦犯・三神高の供述書を公開した。新華網が伝えた。
三神高1954年8月1日の供述によると、彼は1921年に生まれ、原籍日本山梨県。1942年中国侵略戦争に参加、1945年8月捕虜となった。重要な罪行には以下のものがある。
1942年6月、山東省臨清県に駐屯していた時、月吉軍曹は自己の性病を治すため「屡々分隊員に人間の脳味噌を取ってくる様命じました」。私は横倉一等兵に「『討伐』に行ったら取って来てやれ」と言い、「某部落より中国人民(性別年齢不明)を殺害させ、その脳味噌を取って来らせた。私はその脳味噌を焼き、ヤカンに入れ、センに月吉軍曹の性病の薬にしました」。臨清県内にいた時、私はまた「権力を以って朝鮮婦女二名(十八歳-二十歳)を強姦しました」。
1942年8月、山東省陶館県において、捕らえられた中国平和農民男子二名に対して「拷問を行い」、「一口も口をきかないと言う理由を以って大八木少尉は更に『初年兵に度胸だめしをさせる』」と言い、「私外六名に銃剣で胸部を刺突…穴に埋めました」。
1943年2月、臨清県において、夜間に「抗日軍約1000名(情報に依るとの)に対し攻撃」、命令により「遂次侵攻砲弾四十発を発射、此の内催涙性窒息性瓦斯弾十二発。発射部落より脱出者は城門外に重機関銃が位置し、抗日戦士及平和人民三百七十名の大量虐殺を行いました。私が部落に侵入して目撃した被害状況は…部落内外に三ヶ所に抗日軍及住民が重なり合って、殆ど手拭で口を覆い鼻からは鼻水を出し、顔は紫色にはれ上がって死んで居りました」。1943年1月から6月まで、臨清県において「権力を以って朝鮮婦女二名(十八歳-二十歳)を十回に亘り強姦しました」。
1945年4月、山東省膠済線において、訓練帰途「中国平和農民男子一名(四十歳位)が聯隊砲分隊と大隊砲分隊の中間を横切ったと言う理由を以って、私は「たたき殺せ」と10米後方から木村伍長に命じ該農民の後頭部を標杆で毆打させ殺害しました」。

『中国侵略日本人戦犯供述書選』第5

日本人戦犯・三井成美の供述書を公開 20150817

                      

三井成美の1954年8月8日の供述書によると、三井は1920年山口県生まれ。1941年に中国侵略戦争に参加し、1945年9月に捕虜になったという。重要な犯罪行為は次の通り。
1943年1月、湖北省宜都県で、「捕虜となった中国の抗日軍人7人の殺害に関与し、私はそのうち30歳の抗日軍人の首を切って殺害した」。
1943年3月、宜都県で、「地元住民の家に侵入し、16歳ぐらいの中国人女性を拳銃で脅し寝室に連行し強姦してから、畑中にも輪姦させた」。同月下旬、「新兵の白兵戦訓練」の指導に当たり、「7人の新兵に中国人を刺し続けさせ、1人の中国人を殺害した」。
1943年4月、宜都県のある拠点で、部下に命じて、捕虜となった2人の中国の抗日軍人を「揚子江の岸辺にある水汲み場にひざまずかせ、後ろ手に縛り首を切って殺害した」。
1943年9月、宜昌にある黄龍寺の東南部で、1人の中国人(30歳・男、逮捕情況不明)の「鼻から麻酔薬を注入し、山川と酒井は胸部と腹部を解剖してから太腿を切断した。私もその中国人の殺害に関与した」。
1944年5月、荊門県の県都で、「捕虜となった1人の中国抗日軍人(35歳・男)を第2中隊が駐屯した庭の十字架に縛り目隠しをし、教官に対し、新兵40人を走らせ、その胸部と腹部をまるで蜂の巣のようになるまで連続で刺させた後、高橋勇曹長に命じて首を切って殺害させた」。
1945年3月30日、南?県で部下に命令し「抗日部隊の負傷者4人(将校1人、下士官3人)、それに同行していた衛生兵1人および搬送中の民間人6人を射殺させた」。1945年4月、南?県県都の東で「避難中の中国民間人(60歳・男)1人を見つけ、奥原ほか1人に命じてその首を切って殺害させた」。 

『中国侵略日本人戦犯供述書選』第6回

日本人戦犯・山口定吉の供述書を公開 20150818

                 

国家公文書局はは16日、公式サイトで『中国侵略日本人戦犯供述書選』(六)−−日本人戦犯・山口定吉の供述書を公開した。
山口定吉の1954821日の供述書によると、山口は1920年に千葉県で生れた。1940年に中国侵略戦争に加わり、19458月に捕虜となった。重要な罪行には以下のものがある。
194210月、山東省泰安県で中国婦人三十歳位一名を「押し倒し強姦を行いました」。その後隠れていた中島も彼女を強姦しました。
194212月、山東省福山県で「中国農民婦人二二歳位一名を捕え部落に連行し銃剣にて脅迫し強姦を行った」。
19432月、山東省臨清県で「中国農民婦人四〇歳位一名と子供五、六歳位一名が居りました。松井は駆け付けると同時に(中略)刀を以て母親の前肩から斬り付けた。母親は小孩子と呼び子供をかばおうとするのを頭から顔面に斬りおろし斬殺し子供が泣ながら母親にすがろうとするのを背後から斬り付け更に背中を突き刺し殺害しました」。「或る民家の一軒に入ると三小隊長松井曹長と大谷上等兵二名で中国農民婦人四〇歳位一名に対し陰部に棒を突き刺し暴行を行っていました。私は大谷上等兵が長いのがいいと言っていたので進んで天秤棒を大谷に渡し婦人の陰部に力いっぱい突き刺し虐殺しました」。
19449月、泰安県で中国農民男三五歳位一名に水拷問を実行しました」「被害者は血をはき半死となりものも言えなくなった」「二日程後絶命したものであります」。

『中国侵略日本人戦犯供述書選』第7回

日本人戦犯・山村幾馬の供述書を公開 20150819

                

国家公文書局はは17日、公式サイトで『中国侵略日本人戦犯供述書選』(七)−−日本人戦犯・山村幾馬の供述書を公開した。
第七回に記載した要点によると、山村幾馬1954811日の供述によると、彼は1919年に生まれ、原籍日本山口県。1940年中国侵略戦争に参加、19459月捕虜となった。重要な犯罪行為は次の通り。
19432月、湖北省宜昌県において、解剖試験のために警戒を担当し、新谷衛生兵長は中国人民農民男子一名(三十五歳)に「しょうこう水を注射して殺害しました後、山川軍医はめすを以って盲腸を切り出し、引き続き腸を断ち切り、内蔵を一つ一つ切り出して説明しました」。
19434月、湖北省宜都県において、中隊長は「聯隊本部より捕虜とした中国人民農民風の方男子三十五歳位一名を受け取り中隊に連行し」、「初年兵刺突訓練のため中隊中庭の一本木に縛りつけさせた後、中隊長は大田直一に刺突させた後、初年兵に順番に銃剣を以って刺突させ刺殺しました」。
194312月、宜都県において、中国婦女五十歳位の方一名を「小銃を以って威嚇し強姦致しました」;宜都県新江口付近において、「平和人民婦人三0歳位の方一名を発見し、銃剣を以って威嚇し強姦致しました」;「中国平和人民婦人二0歳位の方一名がおられたので、山本義生に強姦させた後、私は輪姦致しました」;婦人三0歳位の方一名に「私は分隊員上田久一に命令し、銃剣を以って威嚇し、づぼんをぬがせて陰部に甘藷直径五糎長さ一五糎位を半分位を押し込ませて四回さしたりぬいたりして暴行凌辱を加え、甘藷を押し込んだまま去りました」。
19448月、湖南省来陽県において、「山茶花林の中に避難されて居た中国人民婦人四名を発見し、強姦の意志を以って襲いかかり、婦女一七歳位を谷間の方向に追いかけ三0米も有る谷間にころがって落とし、殺害致しました。他の三名は逃げ出されたので二三歳位の方を捕へ拳銃を以って威嚇し強姦致しました」。来陽県城南において、中国婦女二三歳位の方一名に対して「拳銃を以って威嚇して強姦致しました」。また中国婦女二五歳位の方一名を発見し「拳銃を以って威嚇し、引張り出して強姦致しました」。ある部落に強姦の目的で侵入して、中国人民婦人二五歳位三0歳位二名の方を「おいかけて河川二0米位の中におい込み溺死させました」。
19427月から19454月まで、湖北省応山県、宜昌県、宜都県、当陽県、漢口市、荊門県、湖南省湘潭県、長沙市において、「所謂慰安所に於て強姦したもの四三回二七名