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韓国民衆言論 チャムセサン  2011年12月29日付)

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キム・ジョンイル国防委員長の時代は終わらない


    


写真出処 朝鮮中央通信 





「●キム・ジョンイル国防委員長に直接会った政治家達は、親米保守勢力の主張と違った評価をする。


金大中前大統領は、キム・ジョンイル国防委員長と南北首脳会談をした後、“識見ある指導者”と評価した。民主統合党パク・ジオン議員は、12月19日京郷新聞(キョンヒャンシンムン)記者と会い、“一言で、すばらしくスマートな人”だと語った。

イ・ヘチャン前総理は、“豪快さと礼節に、深い印象を持っている。”と明らかにした。

甚だしきに至っては、親米保守政党の非常対策委員長を担当しているハンナラ党のパク・クンヘ(朴槿恵)議員も、2007年に出した自叙伝“絶望は私を鍛え、希望は私を動かす”で、キム・ジョンイル国防委員長を“率直で、気遣いを必要としない人”だと回顧した。


●ソ連が崩壊し、東欧圏諸国家が相次いで崩壊した1990年代の情況でも、キム・ジョンイル国防委員長は、“人民大衆中心のウリ式(朝鮮式)社会主義は必勝不敗だ”、“社会主義は、科学だ”等、多数の論文を通して、社会主義を持続することを宣言し、「改革開放」に代表される「市場主義」路線を拒否し、米国との対決を拒まなかった。

キム・ジョンイル国防委員長の反帝、反米路線で、ワシントンはソ連崩壊以後にも、祝杯を上げる事が出来なかった。


●政治理念は、好き嫌いを離れてキム・ジョンウン副委員長(訳注―2011年12月29日現在)に依って、そのまま継承されるであろうし、その意味でキム・ジョンイル国防委員長の時代は終わらないのである」(本文より 訳者)



(本文)

キム・ジョンイル国防委員長の逝去に、世界の耳目が集中されている。

キム・ジョンイル国防委員長が12月17日午前8時30分、走る執務列車の中で、心筋梗塞で急に逝去されたと言う朝鮮中央通信の報道に接し、北韓全体が悲哀の海に沈んでいるのであり、南側でもいろんな政党、団体が哀悼声明を発表し、政府次元の弔問を迫ったし、また多くの人々が、社会関係網サービス(SNS)を通して哀悼を表した。


北韓当局は、原因を“積み重なった精神的肉体的過労”と明らかにした。

実際、キム・ジョンイル国防委員長は、12月10日にだけでも、ハムギョン・ナンドウ(咸鏡南道)にある2・8ビナロン連合企業所の給水沈澱池、リョンサン機械連合企業分工場、シンフンサン化学工場、ハムフン編み物工場、フンナム靴工場、ソンチョンカン輸出品出荷事業所、ハムフン市フェサン地区に新しく建設された野菜温室など、7つの生産施設を現地指導したと言う。


12月13日には、ピョンヤン防衛司令部として知られた朝鮮人民軍第966大連合部隊火力打撃訓練を現地指導したし、12月15日にはピョンヤンにある光復地区商業中心(大型マート)と一つの音楽情報センターを現地指導したと、12月17日、インターネット言論<ニュースエン>は、“専門家達はキム・ジョンイル国防委員長が心筋梗塞などで倒れた原因に対し、無理な日程を消化してきた事を挙げている。キム・ジョンイル国防委員長は最近、1日おきに1日中、対外活動するほどに無理な日程を強行して来た。”と報道した。


韓国経済新聞は、2007年7月8日、“早朝から日が暮れる夕方まで、現地指導を続けられ、人々が深い眠りに入った明け方2時、3時が越えるまで執務を見られる我が将軍”だと伝えたヨン・ヒョンムク前国防委員会副委員長と関連した文を報道した。


1988年から13年間、キム・ジョンイル国防委員長の料理人として

働いたと言うフジモト・ケンジは、“将軍が部下、参謀達と招待所に行って休息を取る時も、度外れた分量の書類がファクシミリで飛んできた。”と伝えた。彼は、“他の人々には、映画を見なさいと言っては、こっそりと抜け出て、ファックスで飛んできた書類を、一つづつ確認し検討するなど、明け方3~4時まで仕事をした。”と記述した。


キム・ジョンイル国防委員長に対する評価は、多様だ。キム・ジョンイル国防委員長に直接会った政治家達は、親米保守勢力の主張と違った評価をする。


金大中前大統領は、キム・ジョンイル国防委員長と南北首脳会談をした後、“識見ある指導者”と評価した。民主統合党パク・ジオン議員は、12月19日京郷新聞(キョンヒャンシンムン)記者と会い、“一言で、すばらしくスマートな人”だと語った。


イ・ヘチャン前総理は、“豪快さと礼節に、深い印象を持っている。”と明らかにした。


甚だしきに至っては、親米保守政党の非常対策委員長を担当しているハンナラ党のパク・クンヘ(朴槿恵)議員も、2007年に出した自叙伝“絶望は私を鍛え、希望は私を動かす”で、キム・ジョンイル国防委員長を“率直で、気遣いを必要としない人”だと回顧した。


明らかな点は、キム・ジョンイル(金正日)国防委員長が、戦後冷戦の時期にキム・イルソン(金日成)主席の後継者として、社会主義北韓を継続して革命に導いたと言うことだ。


キム・ジョンイル(金正日)国防委員長の政治は、キム・イルソン(金日成)主席をそのまま継承した。北韓当局は、キム・ジョンイル国防委員長が1970年代に、既に朝鮮労働党全般にキム・イルソン主席を中心とする唯一思想体系を確立したのであり、1982年には論文“主体思想(チュチェ・ササン)について”を発表し、キム・イルソン主席の思想と理論を、主体思想として体系化、定式化したと明らかにした。


ソ連が崩壊し、東欧圏諸国家が相次いで崩壊した1990年代の情況でも、キム・ジョンイル国防委員長は、“人民大衆中心のウリ式(朝鮮式)社会主義は必勝不敗だ”、“社会主義は、科学だ”等、多数の論文を通して、社会主義を持続することを宣言し、「改革開放」に代表される「市場主義」路線を拒否し、米国との対決を拒まなかった。


ソ連崩壊以後、キム・ジョンイル国防委員長が先軍政治を重視した点について、或る者は主体思想と先軍思想を対立させるが、北韓当局は、先軍政治の根となる軍重視思想も、金日成主席の政治から究明しているのだ。


1994年、金日成主席逝去の局面でも、キム・ジョンイル国防委員長は“偉大な首領、金日成同志は永遠に我々と共におられる”と言うスローガンを提示し、北韓社会を金日成主席の思想と理念で結束しようと努力したのであり、著作“偉大な首領金日成同志の祖国統一の遺訓を、徹底して貫徹しよう”などで見える様に、金日成主席の遺訓を貫徹する政治を広げてきた。


キム・ジョンイル国防委員長の反帝、反米路線で、ワシントンはソ連崩壊以後にも、祝杯を上げる事が出来なかった。


北―米は、1994年の韓半島の戦争危機を経験して深刻に対立した。

北韓は、2006年10月9日、一次地下核実験と2009年5月25日、二次地下核実験を引き続いて断行し、事実上核保有国の地位に昇り、米国中心の<核拡散禁止条約>(NPT)体制は深刻な脅威に直面している。北韓は、1998年8月31日、人工衛星“光明星1号”を発射したのであり、2009年4月5日には、宇宙運搬ロケット“銀河2号”を発射、米国本土を打撃する事が出来る大陸間弾道ミサイル開発の可能性を高くし、米国と対決した。


キム・ジョンイル国防委員長の政治路線が、キム・イルソン主席と同じであるのは、北韓が唯一思想体系に立脚した政治を広げるためである。北韓の唯一思想体系の頂点に立っている人物が即ち金日成主席であり、北韓は金日成主席を指し示して“朝鮮革命の偉大な首領”と称する。北韓当局はキム・ジョンイル国防委員長が“首領の後継者”として、“首領の地位と役割をそのまま継承する。”と規定する。


金日成主席の長男として生まれたキム・ジョンイル国防委員長は、金日成主席と抗日独立運動を共にしたと言う北韓の抗日革命第1世代達の手で成長したのであり、9歳の年に韓国戦争(朝鮮戦争)を経験した。

戦争が真っ只中だった1952年、キム・ジョンイル国防委員長は、当時朝鮮人民軍を導いた金日成首相の作戦指揮を、横で見守り成長したと言う。


キム・ジョンイル国防委員長の政治路線は、社会主義の原則を固守した反帝、反米路線だ。


FTAを始めとした自由貿易が世界を襲う渦中でも、腰ひもを強く締め、米国と対決する北韓の姿は、世界の人々の目に衝撃的だ。


北韓は、事実、米国と全面戦争(朝鮮戦争)も、冷戦も経験したのであり、貿易制裁も経験し、六者会談と言う外交戦も繰り広げた。思想理論論争、情報戦、文化の浸透など、米国との間で、して見なかった対決を数えるのは骨の折れるほどで、北韓はいままで、超剛性の反米国家と数えられてきたし、米国からも<悪の巣窟>(Axis of evil)と言う中傷まで受けた。


その過程で北韓は、自ら<苦難の行軍>と称する90年代の経済難を、克服しなければならなかったのであり、米国の軍事的圧迫にも立ち向かわなければならなかった。


キム・ジョンイル国防委員長は、ニクソンとフォード、カーター政権を相手にし、レイガン、ブッシュ、クリントン、ジョージHブッシュ、オバマなど、総8名の米国大統領と対峙し、結局には米国を対話(のテーブル)へ呼び出したのだ


米国の有力日刊紙ニューヨークタイムズに、最も多く登場したハングルの名前は、驚くことに“キム・イルソン”と“キム・ジョンイル”だ。


キム・ジョンイル国防委員長は、その上、2000年の6.15共同宣言と2007年10.4宣言に署名し、南北交流を推進した。1998年クムガン(金剛)山観光事業も北韓の政治体制を考慮すれば、キム・ジョンイル国防委員長の承認があったものと見るべきである。2000年8月、現代峨山(株)と北韓アジア太平洋平和委員会と、民族経済協力連合会間の締結された「ケソン(開城)工業地区建設運営に関する合意書)も、キム・ジョンイル国防委員長が検討した事案であったであろう。


キム・ジョンイル国防委員長は、2012年を“社会主義強盛大国の門を開く年”と規定し、韓半島平和協定締結、6.15共同宣言と10.4宣言に立脚した南北統一を、以後の北韓の戦略的方針として提示するなど、国家の主要路線と方針を事前に、既に全て整理したと見る事が出来る。


結局、北―米関係と6者会談、南北関係は、中断なく発展される他はない。


良く見れば、キム・ジョンイル国防委員長は、朝鮮労働党総書記、朝鮮民主主義人民共和国国防委員長、朝鮮人民軍最高司令官として、北韓指導体制の頂点に立っている人物だ。


北韓は、2012年に‘社会主義強盛大国の大門’を開けると言う目標を押し立て、キム・ジョンイル国防委員長はこの為に、2011年、新年共同社説で“人民生活の決定的転換”を中心課題として提示した。


ソ連崩壊以後、社会主義を続けて来たのであり、韓半島の軍事的緊張を厭わずに米国と対決したキム・ジョンイル国防委員長。彼の思想と政治理念は、好き嫌いを離れてキム・ジョンウン副委員長(訳注―2011年12月29日現在)に依って、そのまま継承されるであろうし、その意味でキム・ジョンイル国防委員長の時代は終わらないのである。

 


<参考サイト>


☆ 朝鮮民主主義人民共和国 訪問記4 (2011年05月28日更新)

☆ 朝鮮民主主義人民共和国・訪問記 3 (2011年05月22日更新)

☆ 朝鮮民主主義人民共和国・訪問記 2 (2011年05月16日更新)

☆ 朝鮮民主主義人民共和国・訪問記 1 (2011年05月11日更新


☆ 朝鮮半島の戦争危機を煽る張本人は誰か? [シリーズ・その①] (2010年12月31日更新)