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(民衆闘争報道 「沖縄高江・辺野古につながれ!沖縄の課題を私たちの課題にする1125奈良集会」20121127)


「沖縄高江・辺野古につながれ!沖縄の課題を私たちの課題にする11・25奈良集会」が開催された


MV22オスプレイ配備拒否、米軍基地撤去!」の沖縄の意思に連帯しよう

○憲法改悪勢力の台頭をゆるすな

○沖縄は日米両政府の軍事的植民地ではない

○日本政府の政治的沖縄差別は許さない

○「民衆の声を無視する国家に対しては、民衆による直接民主主義→非暴力直接行動以外にない
 (山内徳信)


柴野貞夫時事問題研究会



1125日、奈良市古市町にある「東人権文化センター」で、主催・奈良沖縄連帯委員会、沖縄の高江・辺野古につながる奈良の会、共催・憲法を生かす奈良県民の会によって、「沖縄高江・辺野古につながれ!沖縄の課題を私たちの課題にする1125奈良集会」が多数の市民の参加の下に開催された。沖縄から、参議院議員(社民党)・山内徳信氏、沖縄平和運動センター事務局長、自治労副委員長・山城博治氏が、多忙の中、この日の為に駆け付けた。

山内徳信氏は、衆議院解散(1116日)の慌ただしい日程の中を、山城博治氏は、今も続けられている沖縄県民の普天間基地ゲート前封鎖闘争の現地指導の渦中から抜け出て、奈良県民へ沖縄の意思を訴えるべく来奈された。
両氏の講演に先立って、芸術・文化活動のかたわら、ともに「沖縄の高江・辺野古につながる奈良の会」のメンバーとして活動する、ギタリストの片岡りゅうじさんとアフリカンパーカッションのまるた・きよしげさんのコラボがあり、途中休息を挟んで、沖縄・奄美の島歌を通して三線で平和と反基地を訴える牧志徳さんの演奏などで、会場は熱気に溢れた。

●国家による沖縄差別の実態を、本土国民は、自らの問題として直視しなければならない
(「憲法を生かす奈良県民の会」代表・藤原好雄氏)


        

△写真上―「憲法を生かす奈良県民の会」代表の藤原好雄氏(出処・柴野貞夫時事問題研究会)

共催者側挨拶に登壇した、「憲法を生かす奈良県民の会」代表の藤原好雄氏は、「琉球処分に始まり、日米戦争で本土の盾となって、地上戦と言う犠牲を国家から押し付けられ、日本の独立後も沖縄だけが、19725月まで米軍の占領下に放置された。それだけではない。現在に至るも、日本全土の0.6%に過ぎない沖縄に、在日米軍基地の74%が集中している。国家によるこの沖縄差別の実態と沖縄県民の苦しみを、本土国民は直視しなければならない。オスプレイの本土低空飛行訓練の計画は、我々本土国民(ヤマトンチュウ)が、否応なしに沖縄の課題を自らの課題として捉えねばならぬ事態となっている。」と指摘した。

●「読谷村村長の時、米軍読谷基地に対し、出ていかなければ、基地への給水を止める場合もあると脅しました」(山内徳信参議院議員) 

        

△写真上―山内徳信参議院議員 (出処・柴野貞夫時事問題研究会)

次に、山内徳信参議院議員が登壇した。山内徳信氏は、米軍が最初に沖縄に上陸した読谷村の出身である。1974年、39歳で読谷村村長に当選、6期を務め、憲法9条を自身の信条として村政を貫き、読谷村の73パーセントを占める米軍基地を、役場職員と村民挙げての「実力闘争」で追い出しただけではなく、村を基地経済でなく、平和産業で立て直す道筋をつけた沖縄の偉大な民衆政治家である。

20077月、比例区にて社民党から2位当選、国政の場で、沖縄県民の意思を戦闘的に貫く活動、憲法を擁護し、日米軍事同盟と安保条約を破棄する為、そして朝鮮民主主義共和国に対する抑圧と侵略策動に反対する戦いを展開されている。普天間の代替え地として画策されている辺野古の基地建設を、実力で阻止する戦いの先頭に立ち、また、9月末から始まったオスプレイ普天間配備を粉砕する為の「ゲート前実力座り込み闘争」の先頭で、警官隊による暴力によって負傷したにも拘らず、今回来奈された。


[以下は、山内徳信氏の講演記録要旨]

村長になった時、憲法を味方につけて、米軍基地返還を要求して戦いました

今、辺野古、高江で、沖縄住民が基地建設を阻止しようと、ロープを体に巻きつけて戦っています。辺野古の海に工事の杭を打たせないと、単管櫓に登り、周辺には、年寄りや若者がカヌーや漁船に乗り、現場で抗議を続けています。全国の人々の支援の輪を広げながら戦う事が出来ています。

普天間から辺野古に移ると言って、今年で17年になります。民衆の力がいかに強いか、閣議決定されたから辺野古への基地移設は拒めないと言うが、我々は今もそれを阻止しています。

普天間から飛んで来たパラシュートが、読谷村に、多い時は100もの兵士が降下してきます。兵士だけでなく、ジープも、トレーラーも、角材も下ろすです。それが民家の屋根をぶち抜き、降下してきたトレーラーに、たなはら・たか子ちゃんが押しつぶされたのです。私も読谷村の村民もそんな状況を見てきたものですから、何とかしなければならない。基地を無くさなければならない。

そんな中で、村の若者や生徒達から、私に、村長になって、我々に憲法の尊さを教えてきた事を実行してほしいと懇願され、生涯万年教師として生きてゆく思いを翻意する事となりました。私が村長を引き受けたからには、はっきりとした目的がありました。当時村の面積の73%、255fを占める米軍基地を、村に取り戻すと言う目的です。その道筋を着けるまで、村長を止めるわけにはいかないと考えました。

1972年本土復帰によって独立国家の一員となって、まともな都市計画も立てなければなりません。しかし、道路一本まっすぐに通そうとしても基地にぶつかり、上水道の工事をするにも基地にぶつかるのです。私はそこで日本の憲法を味方に付けることを考えました。

●読谷村の主権者は、米国でも、日本政府でも、沖縄の米軍でもない。我々村民なのです

私が読谷村高校の1年生の時、1951年に日本国憲法を知りました。その四本柱、平和主義と戦争の放棄、戦前には天皇に主権があったが、今は国民にあり、国民は基本的人権を持っていること。又地方自治と言うものがあることなど、それは感動的な出会いでした。読谷村の主権者は米国でも、日本政府でも、沖縄の米軍でもない。主権は我々にあるのだと。

役所はもちろん、議会でも、村中どこにでも行って、誰にでも話しました。憲法とともに、教育の憲法である教育基本法を実践する事も考えました。保守系議員は、基地の返還を要求する私に、村長は日米安保条約がある事、地位協定がある事を知らないか、無視をしている。非常識だなどと非難しましたが、私は、憲法と地方自治の立場から、村民にとって利益である事しかやらないと突っぱねて来ました。

基地撤去を、人権の視点から取り組んできた村長を、「非常識」と言う保守系の議員に、私は例え話で諭しました。“読谷の西の海上には、慶良間や久米島があります。村長は、それらにロープをくくって、読谷の西海岸に引っ張って来ようと言っているのではないのです。しかし、日米安保条約とか地位協定と言うものは人間が作った仕組みでしょう?人間の作った仕組みは、人間の真剣な、命懸けの努力をすれば解決出来ないものはないと思っています。私はそう思っているから、読谷の基地を取り戻すまでは、4期でも5期でも6期でも頑張るつもりです”と言いました。

私はアメリカのホワイトハウスに5回、ペンタゴン、ハワイの第七艦隊司令部まで行きました。その時は、必ず議会の代表と村の執行部が両輪となって訪ねるのです。日本政府との交渉は、招かざる客として毎月のようにしました。

ハワイの第七艦隊司令官・スタックポールは、私との3回目の面会で、基地返還に関しあと2年間待ってほしいと言いました。「日本政府と交渉する」と言うのです。しかし、これは逆ではないですか?

座間基地のフリーマン少将のところへも行きました。 在沖米陸軍の司令部は読谷にあります。この上位の司令部が座間にあるからです。横須賀の海軍司令部にも行きます。基地問題の方向付けは、「日米合同委員会」に米軍側は陸・海・空すべての責任者が集まってくるわけですから。すべてに“読谷の意見を聞かないと大変なことになる”と思わせるのが我々の狙いだからです。

●私は、米軍読谷村基地に対して‘出ていかなければ、基地への給水を止める場合もある’と脅しました

日本政府が、アメリカ政府に基地返還の交渉をするのが筋なのではないですか?ともかく、読谷村の意見を聞いておかないと、後が大変だと言う状況を作っておくことなのです。

当時、冷戦構造の時代、基地返還闘争は、基地を取り戻す点では議会や政党、漁業組合など一致するが、安保の論議になると纏まらなくなってくる。安保反対もいれば、安保容認もいる。沖縄は一体となって政府と米国に対峙する為、それぞれの旗は出さず、読谷村旗だけを掲げるようにしました。抗議行動で議会は、議長の発言だけ。政党、漁業組合、農業団体、商工団体、社会教育組織などすべて、「基地返還実行委員会」一本にまとまりました。

米軍読谷基地に対しては、場合によっては基地への給水を止める場合もあると脅しました。“あんた達の冷房は、空調か、水冷か?”と聞く“上水道も下水道も、水を止めた場合はどうなるか考えなさい。”と言うわけです。このように揺さぶりを掛けました。

その結果、読谷村の米軍基地255ヘクタールの返還が実現したのです。

空からいろんなものが落ちてくると言う身の危険を感じながらの生活からひとまず解放されたのです。民衆ぐるみの戦いをする事、これが沖縄の戦いの展望です。

●私たちは、奈良の皆さんとともに連帯し、憲法改悪と戦争が出来る国作りを、決して許さない戦いを進めて行きます

先島自衛隊配備、辺野古への普天間移設、高江のヘリ基地建設に対し民衆が力を合わしていくこと、1300年の歴史あるこの奈良の都の地から、遠く離れている沖縄の戦いに、奈良の皆さん方が連帯し、このように具体的に実践し、ともに戦っておられる。この事に、戦後の沖縄をーと見て来た人間として、これ以上の喜びはありません。今後皆さん方とともに、引き続き連帯をお願いしたいと思います。

政府も政治家も間違っています。基地問題は沖縄問題ではないのです。日本の政治の問題、国民の問題なのです。安倍晋二が自民党の総裁となり、にわかに憲法改悪の動きが出てきました。彼等は、自衛隊を国軍にとか、軍の名前を付けたがっている。「専守防衛」の自衛隊を、外国で戦争が出来る軍隊にしようと、戦争が出来る国作りをしようとしています。彼の爺さんからの執念の様な妄動をしています。私たちは皆さんとともに、彼等の憲法改悪と戦争が出来る国作りを決してさせない戦いを、進めてゆきたいと考えます。憲法改悪勢力の台頭を許してはなりません。護憲、民衆の総決起が今必要なのです。

今沖縄では、民衆による直接民主主義→非暴力直接行動が、普天間の3つのゲート封鎖闘争として、基地機能に打撃を加える戦いがすすめられています。

民衆の底力を発揮し、自分達の生命、財産、安全を守りぬく反戦平和の戦いを前進させましょう(大きな拍手)

●石原、橋下など、政治の劣化と品位の腐敗が進む中、政治や政治家の原点とはなんであるか、私は山内徳信先生の姿の中に見出す事が出来ると考えています。(山城博治氏)

        

△写真上―自治労県本部副委員長・山城博治氏(出処・柴野貞夫時事問題研究会)

山城博治氏は、普天間基地の県内移設に反対する県民会議事務局長、沖縄平和運動センター事務局長、自治労県本部副委員長として、今、オスプレイの沖縄配備、辺野古への基地移設、高江地区ヘリパット基地、沖縄の米軍基地全面撤去運動において、「非暴力的実力闘争」による住民運動を指導する、最も著名な指導者である。氏の存在は、今、「憲法改悪と日米同盟の強化」を通して、「戦争をする日本への動き」を阻止する、全日本の民衆運動の隊列の前衛に立っている人であると言っても過言ではない。

来年、20137月の参議院選挙に於いては、山内徳信氏の後継者として全国区(社民党)から立候補を予定している。我々は、党派を越えて支援を訴えるものである。

山内徳治氏に続いて登壇した、山城博治氏は次の様に訴えた。

[以下は、山城博治氏の講演要旨]

●政治と政治家の何たるかを示す山内徳治先生の姿の対極にある、改憲勢力―橋下・石原連合の醜い政治の劣化と品位のない姿

遠い奈良と(沖縄が)この様に交流出来る事となった皆さんに、心から感謝します。私は2004年に、自治労副委員長になると同時に平和運動センターの事務局長に任ぜられました。当時山内先生は、県民会議と言う超党派の反戦団体の共同代表をされていました。他の方が高齢の為、実質的な代表者でした。ちょうど2004年に、辺野古の工事強行が始まる時でした。その時はじめて、県の出納長をされている山内先生とお目にかかりました。当時頸椎の手術をされ病意を押して戦われる姿を見て、私は先生の後ろについて闘って行く事を決意しました。

いま、東京の石原さんや、大阪の橋下さん辺りが大連合を組んで、憲法を改悪し集団的自衛権を行使する事を明確にすべきだ、核兵器も持つべきであると主張している。隣国中国を指して、(日本がアジアを侵略していた当時の、植民地支配者の常套表現である)「支那」「支那人」を連発するなどの不当な言辞、言動が毎日横行しています。

政治と言うものが、そんなものであって良いのか、政治の劣化,品性の悪さが目に余りあると思います。民主党への期待が大きく崩れた事が、一部に、右への揺れを生んでいる原因とも考えられます。しかし、政治や政治家の原点とはなんであるかを、私は、山内先生の姿の中に、見出す事が出来ると考えています。

先ほど先生から、読谷村の米軍基地撤去の戦いについてお話がありましたが、それについて、実はその裏に沢山の話があって、二三私から紹介させて頂きたいと思います。それを通して、政治の原点とは何であるかを皆さんと考えて行きたい。

読谷村の広大な米軍敷地を返還させた時に、何もない読谷村、薩摩芋しかない所にどうやって村作りをしようか、山内先生は考えました。那覇市の壺屋と言うところに沖縄を代表する陶工が多くいる。その陶工を誘致して多くの上り釜を作り、陶芸工場をつくり、文化村作りを考えました。

もともと芋作りの盛んな村の特性を生かして「読谷紅イモ」を使った菓子、「読谷タルト」を婦人会と相談し,そうして、菓子産業を興しました。いまやそれは、沖縄一の菓子メーカーとなり、読谷村、女村、那覇国際通りにも、5件の菓子メーカーが出来ました。当時の婦人会長さんが社長となっています。

また村に観光産業を興そうと、全日空やJALの大きなリゾートホテルを誘致しました。県内外から村の産業を育成し、雇用を生むことを考えたのです。こうして文化産業を観光産業につなげながら平和の村を作って、基地をなくし戦争を無くし、平和な沖縄を、文化村作りを通して作っていく、平和産業を誘致して地域を守っていく、そして子供も守っていくと言う、先生のこの様な政治が一方にあるのです。このような先生の姿を見るにつけ、政治家の何たるかを学ばせて頂きました。

その一方で、平和憲法を改悪して、戦争が出来る国家作りを狙い、隣国を挑発し、戦争をする為にだけ奔走をする人々がいる事に、悲しみを覚えざるを得ません。私は、そんな人々に、読谷村の村史を送りつけて、一度読んでみなさいと言いたい。山内先生が貫いてきた政治の姿を、しっかり学んでほしいと言いたいのです。(拍手)

先生には今後とも頑張ってほしい、政治家として立ってて欲しいと思うのですが、先日、高齢を理由にバトンタッチしたいとのお話があり、逡巡のすえ、その思いを判りましたと、ご返事した次第です。しかし、この平和の為の沖縄の参院議員席は、太田昌秀さん、山内徳治先生へと引き継がれてきた偉大な先輩達の沖縄の平和を作る為の議席です。今も私にその資格があるのかと自問しているところです。(頑張れの声と拍手) 政治を糺すため、努力をいたします(大きな拍手)

●沖縄は、日米両政府の軍事的植民地にあらず!復帰前と変わらぬ現実は、日本政府の政治的沖縄差別だ

さて、この間の沖縄の動きはすさまじいものがあります。オスプレイの強行配備、普天間基地移転のたなざらし、辺野古基地建設への執拗なこだわり、高江ヘリパット建設強行など、また、この間の米兵による凶悪犯罪の多発を見るにつけ、沖縄の現実は、40年前の「復帰」以前の世界に帰っているのではないか、当時、米兵の凶悪犯罪、米軍の飛行機事故の多発などで、毎日のように事件が発生し、毎日のように県民の抗議行動が行われていました。その時の状況を彷彿とします。

私が平和運動にかかわるのは、高校時代1968年高校に入学した時、カテナ基地のB52が墜落します。また,よく年、私の同級生の女子学生が村の外れで米海兵隊兵士に強姦目的で掴まり、抵抗して身体中をナイフで切り刻まれます。命は取り留めましたが、私たちは毎日のようにストライキをし、全県の高校生に呼びかけ抗議集会をしました。学校は、退学処分をしめし、「気持ちはわかるが、書類に署名をすれば、自主退学にしてやる」といったのですが、「米軍の存在が引き起こす無法に抗議する事が処分になるのは納得できない」としてサインをせず、放校されました。(当時は、米国の軍政下である)

私はいままで、この事件(同級生が米兵に暴行されたこと)や、その抗議行動について公の場で言った事はありません。それは、同級生の不幸を取り上げて、自分の行動をひけらかす事になりはしないかと危惧していたからです。しかし、先日、「沖縄タイムス」の記者が来て、今回の米海兵隊員による女性わいせつ事件と、連続する記事があって、面会した被害者の兄さんが言うには「これ以上、沖縄の米軍の野蛮な行為を許してはならない。妹は、今は県外で幸せに結婚もして暮らしているし、こんな事件があったと言う事実は取り上げてもらって結構だ」とおっしゃった。こんな事件はいっぱいあるのです。男たちは、それを話したら、2次被害3次被害が拡散するのです。だから安易に言えないのです。

●警察は、凶悪な米兵に対して指一本触れる事が出来ないくせに、米軍基地の敷地内に入って米軍とともに、抗議する日本人を捕まえようとする。こんな不条理は許されない

一番腹立たしいのは、安保・地位協定によって、日本の警察が、米軍犯罪人を捕まえる事が出来ないと言うことです。基地に逃げ込めば、犯罪者は自由なのです。今回の事件は、2時間後にはグアムに発つ予定だったのです。彼等はその予定で、暴行した女性から財布を奪いその金で、ビールを飲んだのですが、たまたま彼等は、民間のホテルに泊った為、警察が情報を掴んでそのホテルに先回りし、拘束する事が出来たのです。今回、偶然が重なって逮捕する事が出来たが、ふつうであれば、基地に逃げればそれでおしまいなのです。裁判に引きずり出す事もできません。米軍は、「日本の警察が起訴するまでは、身柄は引き渡たさない」事になっているのです。基地の中にいる米軍犯罪人は事情聴取が不可能なのに、どうして日本の司法が起訴出来るのでしょう。

●基地を守る米日の権力構造と戦う、民衆の直接民主主義と直接行動

こんな状況で、オスプレイがやってきたのです。沖縄の県議会と、41すべての市町村が反対の意思を明確にしても強行したのです。そこまで県民世論をないがしろにするなら、あとはもう、実力で行動をする他はない。ゲート前座り込みを基地進入路で行った。

この場所は、米軍に提供された基地の一部なので、日本の警察が、米軍のゲートを背中に、この場所で、我々の抗議行動を取り締まると言うことは、米軍とともに基地敷地内でその基地を守って、日本人の抗議行動を押さえつけると言う事なのです。県道や国道でデモを排除することとは違うのです。

日本の警察は、凶悪な米兵に対して指一本触れる事が出来ないくせに、「自分達は米軍の基地に入って米軍とともに、抗議する日本人を捕まえようとする。こんな不条理は許されない。」と、我々は抗議しました。この基地ゲートには、最前線に機動隊が立ちはだかり、その後ろに、米軍が雇った黒ずくめの制服に黒メガネをかけ、腰に拳銃をつけた日本人のセキュリチー警備兵がおり、その後ろに武装米兵が並んでいる。まさに基地を守る為の3重の権力構造がそこにあるのです。

これは、沖縄の植民地的状況を如実に表しています。涙が出るようなこの現実を、記録しなければならないと山内先生はおっしゃっています。沖縄の戦後史に、基地と向かい合う県民の戦いとして記録します。

沖縄タイムスの看板記者が、この記録を、写真と文章でつくると言ってくれています。沖縄朝日放送は、私たちの戦いを1時間番組で放送するといってくれています。

1223日、10,000人大行動を全国によびかけます。普天間基地封鎖の直接行動に結集してください!

座り込みの中心には、65歳以上の年寄りが体を張って座り込みをしました。彼等は、「我々は、留置場に放り込まれても年金で何とか食っていける。だから若いもんは、我々の後ろに座るか、横で応援をしなさい」と言うのです。彼等は最初「熟年の会」と称してメールを発信し呼びかけていましたが、今は、「サラバジの会」と言うのです。その意味は「真っ盛り」と言うことです。

なんと沖縄の年寄りは素晴らしいのでしょう。2重の壁を突き破って幾つかのゲートでは、米軍の前に出る事が出来ましたが、すぐ機動隊に排除されてきました。スクラムは砕ける事はあっても、私達の心は決して崩れません。

1223日には、10,000人大行動を呼びかけています。国道58号線を怒涛の様なデモで埋め尽くし、普天間基地に向かってデモ行進を行います。そして普天間基地のゲートを実力で封鎖します。

年明けにもまた繰り返しやろうと思っています。それをくりかえしながら、普天間は、もう米軍の思うようにはならないと、見せつけなければなりません。

今から全国に呼びかけ、北海道から鹿児島まで、沖縄に結集する事を呼び掛けていきます。

オスプレイの低空訓練は、間違いなく日本全国で行われます。オスプレイの発進基地沖縄へ全国から結集し、沖縄にも、全国にも、オスプレイは飛ばさない。そして沖縄と日本から米軍を追い出す戦いを皆さんと一緒に闘っていきたいと思います。                            (2012.11.26記)

[参考サイト]
論考/「日米安保条約と日米地位協定の歴史と、その反憲法的・反民衆的本質」(2012年11月1日)[2012年11月2日]

☆論考「オスプレイ沖縄配備と、規制なき米軍基地の実態を暴く」(2012年10月10日)
[2012年10月12日更新]