ホームページ タイトル

 

(アジア侵略を正当化し、戦争国家へと暴走する犯罪者集団・安倍政権を分析する)
研究資料―「集団的自衛権の行使は、なぜ許されないのか」( 2007年『世界9月号から転載) 


          集団的自衛権の行使は、なぜ許されないのか

                          内閣法制局長官(2004年8月〜2006年9月)・阪田雅裕



  問い「これまで政府は「日本国憲法のもとでは、集団的自衛権の行使は出来ない」という解釈を取ってきたわけですが、その様に考えてきた理由は何だったのですか。

憲法九条をごらんいただくとわかりますが、第一項で戦争、武力の行使、武力による威嚇、全て放棄すると言う事が書いてあります。それから第二項で陸海空軍その他の戦力を保持しない、交戦権を否認する、と書いてある。

第一項の武力の放棄ですが、実は1928年のパリ条約、いわゆる不戦条約にも、戦争に限ってですが、似た様な表現で書かれていて、その考え方を引き継いで国連憲章も第二条の第三項、第四項で武力行使を禁止しております。要するに、今の国際法では武力の行使は個別的または集団的自衛権の行使として行うもの、それから湾岸戦争のような国連決議に基づいて行う制裁戦争―集団安全保障措置と呼んでいますが―そういうもの意外は一切違法なものとして禁止されているわけです。従って、日本国憲法も仮に九条一項だけであれば、国連憲章、或いは世界各国と同じ様に、いわゆる侵略戦争を中心とした違法な戦争を禁止している、その事を入念的に規定したものだと読めないわけではない。
日本国憲法が独特で、他に類をみない平和主義であると言われてきたのは、その一項以上に二項の規定だと思います。戦力を保持しない、それから交戦権を否認するということで、九条一項と合わせて見れば、これはおよそ正義の戦争のようなものも含めて一切の戦争を禁止しているというふうに読めるし、そう読むのが素直だということです。
従って、単に違法な戦争だけではなくて、正しい戦争も日本国憲法は禁止しており、それゆえに平和主義に立脚した憲法だというふうに考えられてきた。政府もそう考えてきたということです。
ほとんどの憲法学者は、九条二項の戦力の不保持の規定に照らすと、現在の自衛隊が戦力に当たらないというのはおかしい、自衛隊は違憲だという立場だろうと思います。
政府の憲法解釈に、もし分かりにくい点があるとすれば、自衛隊は合憲であるというところから出発しているからでしょう。
どうして自衛隊が合憲だと政府考えるのか。これは勿論九条で戦争は放棄しているのですが、国家には国民が居住しており、その国民一人ひとりには、平和的に生存する権利がある。たとえば憲法十三条は孝福追求権を保障していますが、それは国に対して個人が孝福の追求をすることができることを保障しろという規定です。その国の生命、或いは財産が外部から武力攻撃によって危険にさらされる状況に立ち至った時に、指をくわえて見ていることは、やはり主権国家として、ごく普通に考えても許されないだろうと思いますし、憲法全体、前文や基本的人権を保障した第三章の規定をも合わせて読んでみると、やはり主権国家として、国民の生命や財産を守るために最低限やるべきことはやらなければいけない。九条がそうゆう意味での自衛権まで放棄した規定とはとても思えないというのが政府の考え方です。
昭和三十四年に最高裁が出した砂川事件判決というのがあります。これは米軍の駐留をめぐって争われた事件で、勿論自衛隊について言及しているわけではありませが、少なくとも我が国が自衛権を持っているということは最高裁も認めています。自衛権があっても、自衛のための措置を講じることが出来なければ、意味が無いわけですから、自衛のために―国民の生命、財産を守るためにと言ったほうがいいのかもしれないですけれども―、必要最小限度の実力組織を有し、武力攻撃を受けた時にそれを排除するための必要最小限度の実力行使が出来る、この点が政府の憲法解釈がもっとも、大方の憲法学者と異なるところだと思います。
ですから政府の憲法解釈というのは、そこさえご了解いただければ、非常にシンプルなわけです。国民の生命、財産を守るための必要最小限度の実力組織として存在するも、それが自衛隊である。そして、それが果たして必要最小限度を越えているかどうかは、予算審議等を通して国会の判断、いわば国民の判断であると言って来たわけです。量的にどこまでということは一概に言えない。そういう性質の自衛力ですから、専守防衛ということで、もっぱら攻撃をする時にしか使えないような兵器は保持する事は出来ないと言って来ました。たとえば航空母艦とか長距離ミサイルの類の兵器で、こうしたものは、いまも保持していないわけです。
もう一つ言えることは、自衛隊は将に国民の生命、財産を守るために存在する事から、海外で武力行使をすると言うことは基本的に考えられない。「基本的には」というのは、たとえば自衛のため、要するに外国の武力攻撃があり、それを排除するための行動が領土、領空、領海の外に及ぶと言うことはあり得る。
そうゆう意味で自国の防衛のために必要最小限度の範囲以内で公空,公海に及ぶということはあったとしても、それ以外の場合に海外、特に外国の領土、領海、領空で武力を行使することは許されない、というのが政府の解釈なのです。
ですから、集団的自衛権であれ、集団安全保障であれ、それは直接的には国民の生命、財産が危険にさらされている状況ではない。にもかかわらず、自衛隊が海外に行って、たとえ国際法上違法でないにしても、武力を行使することを憲法九条が容認していると解釈する論拠は、日本国憲法をどう読んで見ても、個別的自衛のための軍事行動とは違って、見出すことは出来ないということだと思います。

内閣法制局は、何のためにあるのか

  問い「安倍首相が立ち上げた集団的自衛権に関する有識者懇談会(時事研注―第一次安倍政権時の‘有識者懇談会’を指す)の議事要旨を見ると「憲法の有権解釈は政府ではなくて裁判所にある」という発言が出ています。内閣法制局の存在理由・役割は、どのようなところにあるのでしょうか。

もちろん、憲法を含めすべての法令の最終的な有権解釈権能を有しているのは裁判所です。けれども、裁判所が考えるからどうでもいいやというわけには、残念ながら政府はいかない。

個別具体的な法令のほとんどを第一義的に執行するのは政府ですから、政府が一定の解釈の下にそれを執行するのでないと国は回っていかないわけです。その結果、しかし最終的に「行政庁の解釈は間違っている」と裁判所に判断される事がないとは言えない。しかし、政府としての解釈をしっかり持っていなければ、法令の執行が出来ないわけです。
憲法も全く同じで、政府として憲法の各条をどう解するかということがないと、その執行ができない。

憲法の場合はそれだけではなくて、法律や政令が作れないんですね。一定の憲法解釈を有し、それを前提として、それに整合するような法律をつくる−正確には法律案を国会に提出する−わけです。

憲法違反の法律は無効ですから。たとえば、政府としては前進のつもりだったのですが、在外邦人(外国に在住する日本人)の選挙権について、公職選挙法を改正して衆議院、参議院とも比例区については投票を可能としたもの選挙区選挙については選挙の公平が担保できないと言う理由で認めなかった。
それについて昨年、最高裁から違憲の判決を出されました。これは自分も関係した事でもあり、政府としても恥ずかしい事だと思いますが、しかしいずれにしても政府として一定の考え方の下に憲法を解釈し、この例で言いますと主に選挙権の平等を定めた四十四条という事ですが、それに基づいて憲法に適合する法律をつくっていくのでなければ、国民の権利が十分に守られません。
裁判所が法律をつくる度に全部チェックしてくれるのであれば、勝手にどんどん憲法解釈など関係なくつくって裁判所で判断をしてもらえばいいと言う事でしょうが、今の日本には憲法裁判所もなく、裁判所はそういう抽象的な違憲立法審査はしません。
個別の法律であれば、第一次的にはそれぞれ所管の省庁の責任において解釈をし、執行すると言う事になりますが、憲法は特にどの役所が所管しているということではない。また各省庁がばらばらに憲法解釈をすると言うことであってはどうにもならないわけです。
たとえば九条でも、防衛省の解釈と、外務省の解釈と、防衛予算に関係するからと言う事で財務省も解釈をすると言うことがあり得るわけですが、それぞれてんでばらばらになったのでは、行政そのものが執行できないことになる。ですから憲法については、最高の行政機関である内閣が統一的な解釈をしなければならない。その内閣の補佐機関であり、法律専門家集団である内閣法制局は、否応無くそうゆう役回りを担わされているわけです。

法治主義の精神に反する解釈変更

  問い「安倍首相が検討を進めている集団的自衛権に関する政府解釈の変更ですが、時の政権担当者がいままで積み重ねてきた政府の解釈とは、異なる憲法解釈を取ると表明することには、どの様な問題があるとお考えですか。


憲法も含めた法律解釈一般ということでまず申し上げると、憲法も法律も文章で書かれているわけです。昔のような慣習法の時代ではなく、成文法になっているわけですから、結局その書かれている文章全体を論理的に考えて、意味内容を確定すると言う作業が解釈だと思うのですね。
解釈とは、そういう論理的な作業である以上、当然に、人によってばらばらであるということは本来ないものでなければならないと思っています。
みんな読む人ごとに意味内容を違えて受け止めるというような法令は、欠陥があると言っていいでしょう。したがって、その意味内容を政府の作業として論理的に検討し、固めたということになれば、執行の責任者が変わっても、それで運用していくということでないと、行政の一貫性が保てないわけですし、国民も非常に戸惑うことになります。
これはもちろん憲法に限らず、全ての法律について当てはまります。法律は当然のことですが、国民に権利を付与したり、義務を課したりしますから、義務がないと昨日まで言われていた人が、明日から解釈が変わったのであなたも義務がありますと言われる様なことがあると、国民は、自分の行動を計画することもできないと言うことになり、国民の生活がとても不安定なものになります。社会のルールとして法律が作られているわけですから、ルールの変更にはデユープロセスが必要です。法治主義とか法治国家と言うものはそうゆうものなのですから。
もちろん、人がやる事ですから完璧ということはないし、先ほどもお話しした様に、裁判所から違うと言われる可能性は否定できない。それから時代の変遷ということも、ないとは言えない。たとえば、かっての個別間接税の時代、物品税は、品目を特定して課税をしていたわけですね。そうすると、新しいものが出てくると、すぐには課税が追いつかなくて、類似の古いものは課税されているのにたまたま新しいものだからどんなに高価であっても贅沢であっても課税されないという事がまま生じた。そういう時にどうしたかと言うと、無理な解釈をして課税するのではなく、早急に法律や政令を改正して時代に合わせるという作業をしたわけです。
次に九条について言いますと、九条に関してはいま言った一般論もさることながら、それ以上に、昭和二十九年の自衛隊創設からでも五十年余り、その意味するところは何かをめぐって、政府と国会とのやりとりを中心に長い間議論されてきました。恐らく憲法の様々な規定の中でも最もたくさんの時間を費やされて議論されてきた規定だと思います。
これは議会制民主主義ですから、とりもなおさず国民に対して申し上げてきたということだと思うのですね。国会を通して、国民に対して憲法九条というのはこういう意味だと言う事をずっと言ってきたことにはそれだけの重みがあり、国民の間でもそれなりに定着してきている解釈だと思われます。
それがある日突然に、今まで言ってきた事は全部間違っていました、これは実はこういう意味でしたと言う事になる。やはり国民の法規範に対する信頼を非常に損ねるものである。
そういう成文法の意味すら内閣が自由に左右出来ると言うことになると、一体法治主義とか法治国家というものは何だという事になり、国民の憲法や法律を尊重しようという、遵法精神にも非常に影響する事になりかねません。
もう一つは、九条については、集団的自衛権や、集団安全保障、海外での武力行使もいいんだという事を、九条一項、二項から導く事が論理的に難しいと言う事です。
そして、もしそれもいいのだと言う事になったとすると―私たちは規範性というふうに言いますが―法規範としての九条の意義がほとんどなくなってしまいます。
冒頭に申し上げたように、国連憲章が出来てから、戦争の違法性がずいぶん進んで、集団的自衛権の行使や集団安全保障以外の海外での武力行使は一切違法なものだとしているわけですね。憲法九十八条があって、我が国も国際法で認められる武力は禁止していないと解釈する事になれば、九条というものはあってもなくても同じ、念のためにしつこく書いてあるという―法律用語では入念規定というのですが―、念のための規定という以上の意味を持たなくなってしまう。
そうだとすると、教科書などで日本国憲法は三つの原理の上に立っている。一つは国民主権、二つ目は基本的人権の尊重(ここまでは世界中どこも一緒ですけれども)、三つ目に平和主義という事が言われてきたわけですが、その平和主義と言うのは一体何だろうと言う事になってしまいます。
その様な意味でも九条解釈について、時の政権の意向で変更するという事は、ハードルは高いと考える。

国際法によって、日本国憲法が干渉される事はない

  問い「有識者懇談会の議事要旨を見ますと、これまでの政府解釈には国際法と国内法とのギャップが大きいとか、国際法の議論を今まで踏まえていなかったと言う趣旨の発言が見られるのですが、法制局で検討を行う場合には、国際法の事も考えて議論をするものなのでしょうか」

憲法と国際法は違います。よく、権利があるのに行使出来ないのはおかしいという議論をされる方もいるわけですが、国際法というのは基本的には主権国家の内政には干渉しない。要するに統治権力と国民との間がどう在るべきかについての国際慣習法はなくて、統治権力はいわばオールマイティです。王政であろうと、民主主義であろうと、そんな事は国際法の問うところではない。
国家の戦争といっても、実際に携わるのは国民ですが、国民に戦争をさせるのもさせないのも、それぞれの国家が自由に判断するところと言うことになる。
国際法は、国家間の約束、取り決めでしかないのです。だから違法な戦争をする事はいけないと言うのは、国家間の約束、国と国との関係の問題なのに対して、その国家がいわば正しい戦争をするのかどうかと言うのは、統治権力者である国と非統治者である国民との間の問題です。両者の関係を規律するのは憲法であり、法律なわけです。
憲法と言うのは、マグナ・カルタ以来、統治者と被統治者の間のいわば約束事だと考えられています。憲法各条の名宛人は殆どが国です。
たとえば、二十九条や十四条についても、国に対して、国民の財産を侵害してはいけない、国民を差別してはいけないという事をもとめているのです。
九条は国民が国に戦争をさせないと言う事を決めている規定なのですから、それは国際法がどういうルールであるかという事とは、全く次元が違います。国際法では、軍隊を持つことだって全然かまわないのですから。
それならば、九条が戦力を持つ事を禁止していることについては、何故、国際法と国内法の矛盾と言わないのか、また、戦争当事者になれば交戦権は当然、国際法上認められているわけですが、交戦権を国内法である憲法で否認すると言うのは一体どういうことか、と言う様なことを議論しないで、集団的自衛権の部分だけを議論するというのは、はなはだ珍妙なんですね。法律学の議論としてはイロハのイの部分だろうと思います。


(時事研・注)

この、「集団的自衛権の行使は、なぜ許されないのか」は、雑誌<世界>の編集部の質問に対する回答の形式による元内閣法制局長官・阪田雅裕氏(20048月〜20069月時)の、第一次安倍内閣時の「解釈改憲」に対する見解である。(一部項目を割愛した他は、全文そのままの記述通りである)

第一次安倍内閣は、憲法改悪―自民党憲法草案を提起した。同時に、現行憲法の下でも、<集団的自衛権>の行使が可能であると主張し、‘解釈改憲’を通してなし崩し的な憲法解体を押し進めようとしたが、20077月の参院選での自民党の惨敗により、同9月政権を投げ出し、解釈改憲の狙いも頓挫したが、いままた、第二次安倍政権は、その復活を企んでいる。

安倍は、現行憲法下でも、「集団的自衛権行使が可能」とする憲法解釈を、自らの一存で決められるとする次の様な暴言を、219日の衆議院予算委員会においておこなった。「政府の最高責任者である私が、責任をもって、その上で、選挙で審判をうける」と。改憲発議の要件を定めた96条を始めとする「名分改憲」への壁を前に、「国民主権に基づく最高法規」を恣意的に解釈する事で、憲法を国家権力の意のままに解体し、利用するなどと言う行為は、犯罪行為でありクーデター行為そのものである。断じて許すことは出来ない。

元内閣法制局長官・阪田雅裕氏の見解は、安倍の「解釈改憲」が、憲法制定後、歴代内閣と国民的合意と議論の下で積み重ねられて来た憲法規範を、乱暴に否定するものである事を明快に論証するものである。

阪田雅裕氏は指摘する。「そういう成文法の意味すら内閣が自由に左右出来ると言うことになると、一体法治主義とか法治国家というものは何だという事になり、国民の憲法や法律を尊重しようという、遵法精神にも非常に影響する事になりかねません」と。

 

<関連サイト>


自民党「新憲法草案」は、日本国憲法の“平和主義・人権主義・福祉主義”を全面否定する、許すことの出来ない反憲法的クーデターである(6)(2007年 5月2日)

☆教育三法改正は、国家権力の教育支配に対する制約を取り除いた違憲行為である(5)(2007年 4月24日)

☆改憲手続法=国民投票法と、その強行採決は国民の諸権利の圧殺と蹂躙である(4)(2007年 4月15日)

☆NHKへの、安倍首相の「政治介入」と「放送命令」(3)(2007年 3月18日)

☆日本国憲法の理念こそ、平和の構築である(2)
(2007年 3月18日)

☆9条1項・2項の破棄は、日本の軍事大国化と、働く民衆の諸権利を抑圧体制を作ることにある(1)(2007年 3月18日)